富田川の治水対策
白浜町
明治22年8月19日2時
この時、富田川の堤防が一斉に切れ、大音響とともに、天地を揺り動かし、決壊場所から一度に流れ込む濁流は、物すごい響音と共に低地に向かって渦をまいて流れこんだ。そのため水はいよいよ深く、またたくまに2丈8尺(8.5メートル)を増した。ここで決壊前に残っていた人家はほとんど流失、人間や多くの家畜・木材や砂や岩石と共に上流から流れてきて海に向かって音をたてて注いでいる。
明治26年8月17日夜半
紀伊半島に超大型の台風が上陸、富田地域を直撃。天は再び大洪水を下し、富田川の新堤防も、農民が苦心の結果復旧した井堰もほとんど決壊、富田平野は再び礫磧と化し、村民の落胆失望は筆舌に表すことができない惨状となった。(白浜町誌 本編下巻二)
上富田町
明治22年8月大水害
『富田川災害記』によると、富田川筋の死亡者565人は、圧死23人、溺死542人、負傷者52人、家屋流失749戸、半流47戸、全壊459戸、半壊148戸、牛馬の死亡が136頭である。堤防は各所で壊れ、手入れの行き届いた水田も河原のごとくなっていた。
とくに土壌の柔軟な水源地帯での山の崩壊が多く、最上流部の山崩れが川をせき止めたので、下流域ではいったん水が引いたとみられた。ところが、その堰が切れて一気に大水が下流へ流れて堤防をあふれ出した。そのため、比較的堅固といわれていた彦五郎堤をはじめ、主要な部分で堤防はことごとく決壊して、家々や田畑、道路を一挙に押し流してしまった。
さらに朝来村岩崎と北富田村保呂の間が井堰のように泥水をせき止めたことが、朝来、生馬両村の被害をさらに大きくしてしまった。犠牲者も朝来、生馬両村とその上流部にあたる岩田村を加えた三か村で326人(富田川筋の57.7パーセント)という結果になった。とりわけ生馬村は、村民の約10パーセントにあたる人々が犠牲となってしまった。
この水害の復旧には、長い年月と多大の費用、労力を要して、村および村民の財力を苦しめた。被害の甚大であった奈良県十津川村では、直後に北海道へ集団移住をして新十津川村をつくったことは広く知られているが、当地からも屯田兵や一般住民として北海道へ渡っていった人々もいた。 (上富田町文化教室シリーズ 富田川の災害と治水(その2))
田辺市(旧大塔村)
明治22年8月大水害
鮎川地区の被害状況
- 向越では家もろとも流された。
- 小川中ノ俣では一家7人全員死亡
この水害以前は字杢路石から下新田への灌漑用水溝は現今の露の倉にて今の川床の三尺下方(約91センチメートル)に岩を掘って通じたものであったが、その溝下1丈(3.3メートル)もあったため、この付近は1丈5尺(約4.5メートル)も埋まったものである。
明治26年水害
8月18日の水害でこの災害によって開拓水田8~9割は荒廃地と化し、旧堤防はほとんど決潰したが、死者は一人もださなかったことは、不幸中の幸である。(大塔村史 自然編)
田辺市(旧中辺路町)
明治期には22年(1889)8月、26年(1893)8月の二度に亘り、県下における未曾有の大洪水が発生し、各河川で堤防が決壊して田畑は河原と化し、森林は崩壊流失して荒野に変ぼうしている。
中でも富田川筋一帯の被害は甚大で、溺死者だけで542人数えた。
県の調査によれば、前記2度の大災害時における富田川の水位は、明治22年時は60尺(18メートル)、同26年時は30尺(10メートル)と、過去の記録には全く見られない大増水であったとある。(中辺路町誌 下巻)
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更新日:2017年12月01日