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●上富田町と小栗伝説 −小栗半官・照天(照手)姫物語− |
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二、口熊野と小栗街道
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新庄と朝来の境界の峠は、新庄峠・朝来峠とも呼ばれ、高さ四〇センチほどの、「道分け地蔵」が祀られている。この地蔵は、道しるべもかね「右ハ大へち道」、「左ハ熊野道」とある。左に行けば飛曽川樫ノ木を経て「三郎坂」を越えて朝来上村に入り富田川を遡る中辺路の脇道になる。 朝来尋常高等小学校編『児童融和教育の理論と実際』(昭和十一年刊)という本がある。この本は朝来教育に象徴される、全国的にも有名な、融和教育の実践の本である。その本の中で「村の交通」の項に、「旧熊野街道は新庄村より、集落の中央部を通り馬の谷を貫いて岩田村に通ず、その路幅一・五米、旧態のままにして今尚里人の唯一の勝手道となっている。昔小栗判官湯の峯におもむかんとして此の地に至り馬の谷にさしかかるや通路急峻なるを以て此所に憩ふ事しばし、『一脚引いては馬の谷、二脚引いては馬の谷』といった。」と伝えられている。 |
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「咲いた花より 咲く花よりも 咲いて乱れた花がよい 咲いて乱れて また咲く花は小栗判官照手の姫よ 小栗判官照手の姫は殿のためにと車を引けど ためになるやらならぬやら」 とうたわれている。 くまの文庫『古道と王子社』には、天仁二年(一一〇九)の藤原宗忠の日記によると、現在の下鮎川の地名を、加茂里とよばれていたと記しているが、いまも上富田町下鮎川に加茂の地名が残っている。 山手の「かも山」は室町時代に関所があったところで、その跡は明らかではないが、現成道寺のある台地に至るまでのオザケノサカ付近と思われる。熊野古道といわれ、小栗道は、ここを登り、関所畑を経て成道寺の裏を通り、上富田町と大塔村の境界近くの、花折地蔵を通り、昔成道寺があったと言われている寺平の庚申塔、遍路施宿千人供養塔、地主社を経て、いやの谷の王子社あたりまでで、これが小栗道といわれている。 |
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| 病む人々の歩む道 | ||||||||||||||||
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