王子跡とその周辺 

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 市ノ瀬王子跡

市ノ瀬王子跡

市ノ瀬王子跡

 市ノ瀬小山集落の山裾にあります。この王子は、建仁元年(1201)の『熊野御幸記』に、

石田河を渡り、先ず市ノ瀬にまいり、とあります。稲葉根王子付近から石田河(富田川)を渡って市ノ瀬王子に向かうのが当時のコースで、石田河は熊野詣の垢離場として『平家物語』『源平盛衰記』などにみえ、古くから有名でした。この川を一度でも徒渉すれば、いままでの罪業がことごとく消滅すると、広く人々に信じられていたわけです。応永34年(1427)の『熊野詣日記』は、

御ひる、一の瀬、御まうけ山本、宿所御所になる、川のうへに御氷場をつくりかけたり、某風情こそいとやさしく侍れ、まつ御所に御入、供御の後御氷場に御出ありて、御氷めさる、いわた川の御氷これなり、昔ハ御幸なとには三の瀬にてめされけるやらん、まこつくしの松とていまにあり、大かたハ此一の瀬より二の瀬、三の瀬、ちきに御わたりあるへきなり、されともいまは川の瀬も、昔にかハりてわたる事なけれハ某儀なし、御わたりありて悪業煩悩の垢をすゝきましますいはれなり、女院なとの御まいりにも、ちきに此川をハわたりましましけるとかや、御手を引事斟酌なれハ、しろき布を二たんむすひあハせて、ゆいめにとりつかせたてまつる、布の左右を、しかるへき殿上人あまたひかへてわたしたてまつる、上らふ女房御そはにそひて、布にとり付て、御とも申されけるとなり

と、石田河の徒渉の様子をくわしく記しています。

 ところで、江戸時代の大庄屋の記録(興禅寺蔵)に、この王子は江戸時代初期の頃には荒廃し、その跡も忘れられていましたが、そのころ、紀州藩によって行われた九十九王子の現地調査で藪の中から旧跡がみつかったので、寛文元年(1661)王子権現宮を再建したと記されています。このように、元来一村の産土神ではなかった王子は、王子巡拝の衰退とともに里人から忘れ去られることになるのは、自然のなりゆきといえましょう。

 寛政4年(1792)の「田辺領神社書上帳」には、建前三尺四方で、御神体は蛇形の石と記されていますが、その御神体は明治末期の神社合祀で対岸の春日神社にうつされます。

 その後、昭和44年に市ノ瀬史跡顕彰会と小山地区が境内の整備をおこない、「一瀬王子跡」の碑を建立し、また、平成元年には地元の人々が社殿を再建して史跡の保存を図っています。

 

 ○指定種別    県指定文化財 史跡

 ○所在地      上富田町市ノ瀬小山1592

 ○指定年月日  昭和33年4月1日

 

   (玉置善春氏提供)  2.3.31