−ふるさとの伝統− 上富田町の民俗芸能 

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 市ノ瀬大踊り

 市ノ瀬は紀州の有力国人領主であった山本氏が、南北朝期(1333〜92)頃から天正13年(1585)豊臣秀吉の紀州攻めによって滅ぼされるまで本拠としていた所です。

 この大踊りは、永禄年間(1558〜69)から伝えられ、近世初期から中期には盛んに演じられていました。興禅寺所蔵の17世紀初め頃に記された「覚書」

    一乗禅寺

    但一乗寺境内、東西八十間、南北六十間、

    此寺庭ニ而毎年踊リ有之、女ハはなやかに出立匂香ヲ焼キ、

    大ささら持、男ハ望ニ任せ長刀大うちは持踊りたち、

    老若人数五六千人も集る事なり、是を大踊りと云

とあります。

 また、同寺所蔵の宝暦14年(1764)2月の「牟婁郡櫟原之荘一之瀬村神社祭祀中古聞伝申伝覚」には、次のように記されています。

    大踊往古より有来ル、只今其形規踊来リ候、古ハ大団扇をかさし、

    老若踊きたり候由、但唱歌左のことし 一の瀬殿の 宝のミふね 

    湊へまハる やうめてた ことしの稲の 葉色のよさや すわ世の中を 

    ゆりおこす これの御庭へ まいるよりしめて 今宵は爰に 夜をあかす 

    今宵はくもり 蚊かくいそろよ あをいてたもれ たびの殿 皆友達よ 

    いそひておとれ しらすけ笠に 露かおく せめもせめたよ 

    細川おの子 河内の陣の きりしきを

大踊り (1)  
 
大踊り (1)  
 大踊り (2)
 大踊り (2)
右大団扇ニ而前府主龍松城二十四代相続之時より踊来候由、一野瀬朝来とも唱歌ハ同様なり、拍子ハ一の瀬三ッ拍子、朝来五ッ拍子と申伝候、猶又子とも踊往古ハ五番、狂言三番続とふけ壱番ニ而有之由、中古は子共踊三番、狂言三番続と相勤来候
ついで、『紀伊続風土記』市瀬村春日社の頃

此社山本氏領主の時氏神なりしより、其遺形にて祭祀の儀今に猶盛なり、市瀬踊と云ふ踊あり、歌の辞領主を祝せる辞なり、事は詳に朝来村産土神社の条下に見ゆ
と記し、朝来村産土神社の項には、
当社は山本氏此地を領せし時勧請せしならん、例祭七月二十七日氏下群参して踊あり、其唱歌に市ノ瀬殿の宝の御船湊へ回るようめでた、攻も攻たよ細川をとこ河内の陣のきたしきを等の語あり、市ノ瀬殿は即山本氏なり、宝の御船は領内の民領主の乗船を称する詞 湊は富田川の湊なるへし、きたしきの義いまた考へず永禄年間畠山高政三好の長慶と河内国高屋城及教興寺等にて合戦あり、山本氏畠山氏に属して細川三好の徒と戦ふ、其凱陣を称して此童謡ありしを今に伝へしならんと、この踊りの由来や踊りの時期、場所など記されています。

 このように、大踊りは市ノ瀬と朝来で演じられていますが、その場所は、、いずれも山本氏に縁のある社寺であります。市ノ瀬では明治中頃から暫く絶えていましたが、のち、数年毎に行われていました。昭和5年興禅寺で踊ったときの見聞記(『南紀民俗控え帖』)によれば、その時は4名の唄い手が菅笠に羽織袴で床凡に腰をかけて唄い、20名位の踊り手は、いずれも菅笠をかぶり、足軽風の姿で、先頭の1名は小太鼓を持ち、他はすべて団扇を持って踊りながら円陣を作り、丸くなって踊ったことが知られます。

 ところで、永い歳月の間に風流化して、扮装や持ち物などに多少の変化が見られますが、単調な踊りと、調べが低く抑揚の少ない唄の中に、古い時代の面影を残しています。唄には、領主を称える詞がみられ、また、近世初期に流行した伊勢踊りの「世の中をゆりおこす」の詞がみえますが、唄の調べと踊りの構成ならびに所作は、念仏踊りに類似している点が多くみられます。念仏踊りは、江戸時代になると宗教性がうすれ、念仏の唱言を民謡や、はやり唄にかえて、扮装もはなやかになってきます。

 『紀伊続風土記』のいう永禄年間の河内国出陣は、紀州勢の惨敗に終り、領主忠朝は戦傷を負い、帰国後ほどなく死去したと伝えられています。したがって、この大踊りは凱旋を祝った踊りではなく、全般的にみて、相つぐ戦乱にたおれた人々の回向のために踊った踊念仏を源流として、幾多の変遷をたどりながら風流踊りとして今日に伝承されたものといえましょう。

 なお、歌の詞は伝承によって多少の相違がみられますから、最古の文献史料である「興禅寺文書」の記録を採用しました。

   ●指定種別

 ●所在地

 ●指定年月日

 町指定無形文化財

上富田町市ノ瀬(市ノ瀬大踊り保存会)

昭和51年7月15日