●中世末上富田の城館跡 |
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まえがき |
山本氏は清和源氏(近江源氏)から出たといわれる。諸の一つに熊野別当家からの出自ともいわれる。室町時代の寛正元年(1460)幕府の奉行衆をつとめ、紀伊国八庄司の一つに数えられ、熊野衆を代表する有力な国衆である。熊野詣の通過地「一ノ瀬」を本拠にして、富田川流域一帯をはじめ田辺・日高郡の一部を領有し、その支配は市ノ瀬(龍松山城を基点)の2キロ範囲以内を直接支配(直轄地)にし、2キロから4キロ範囲(第一外郭地)の村落、岡・岩田・生馬三村を山本二郎家筋(天正時代は兵部之 4キロから6キロ範囲(第二郭地)の村落の生馬口、朝来両村のほか、日高郡南塩屋を山本三郎家筋(天正時代は権之丞)が、生馬口に居住し支配した。また蛇喰城を守護し有事に備えた。 6キロから9キロ範囲(第三郭地)の村落の保呂、堅田、富田のほか田辺の神子浜を山本式部家筋(天正時代は式部之丞「堅田式部と改称」)が支配し、堅田に館を構え、地侍を従え、それぞれの村落を治めさせ、有事には要害山城(一名堅田城)や各地域の城砦(高瀬の要害城、十九淵の庄川口城、保呂の鴻巣城など)を守護させた。しかし主命に従わぬために取潰されたという。 永禄9月(1566)主膳正康忠の父、治部少輔忠朝が病死によって失なうや、家督相続(主膳正康忠支持派と兵衛佐弘元−康忠の異母兄弟で年上−支持派)を奨機に家中二分し、重臣や家老のなかには外部(隣接地の宿敵であった小山氏や安宅氏をはじめ本宮・新宮など)の力を借りて康忠支持派を除こうするものも出た。結果、弘元の江州への立退きと支持者の処罰によって終ったが、天正9年(1581)3月、二郎家筋の兵部之介の論功行賞不満から本城龍松山城の乗取りと伯父(万呂殿)の暗殺を行ない、城取りは失敗し遂電したという。そのため龍松山城の第一外郭と第三外郭は手薄になったといえる。この4年後の天正13年(1585)秀吉の紀南征討は、山本氏の内部情勢を見抜いた戦法でもあったといえよう。 |