中世末上富田の城館跡 

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 まえがき
 
 

山本氏は清和源氏(近江源氏)から出たといわれる。諸の一つに熊野別当家からの出自ともいわれる。室町時代の寛正元年(1460)幕府の奉行衆をつとめ、紀伊国八庄司の一つに数えられ、熊野衆を代表する有力な国衆である。熊野詣の通過地「一ノ瀬」を本拠にして、富田川流域一帯をはじめ田辺・日高郡の一部を領有し、その支配は市ノ瀬(龍松山城を基点)の2キロ範囲以内を直接支配(直轄地)にし、2キロから4キロ範囲(第一外郭地)の村落、岡・岩田・生馬三村を山本二郎家筋(天正時代は兵部之(介))が治め、岩田の釣卸つるべおろし城(砦館)を構え、有事に備えた。しかし天正9年内紛で遂電し、領主直接支配地帯となった。

 4キロから6キロ範囲(第二郭地)の村落の生馬口、朝来両村のほか、日高郡南塩屋を山本三郎家筋(天正時代は権之丞)が、生馬口に居住し支配した。また蛇喰城を守護し有事に備えた。

 6キロから9キロ範囲(第三郭地)の村落の保呂、堅田、富田のほか田辺の神子浜を山本式部家筋(天正時代は式部之丞「堅田式部と改称」)が支配し、堅田に館を構え、地侍ぢざむらいを従え、それぞれの村落を治めさせ、有事には要害山城(一名堅田城)や各地域の城砦(高瀬の要害城、十九淵の庄川口城、保呂の鴻巣城など)を守護させた。しかし主命に従わぬために取潰されたという。

 永禄9月(1566)主膳正康忠の父、治部少輔忠朝が病死によって失なうや、家督相続(主膳正康忠やすただ支持派と兵衛佐弘元ひろもと−康忠の異母兄弟(先妻の惣領)で年上−支持派)を奨機に家中二分し、重臣や家老のなかには外部(隣接地の宿敵であった小山氏や安宅氏をはじめ本宮・新宮など)の力を借りて康忠支持派を除こうするものも出た。結果、弘元の江州への立退きと支持者の処罰によって終ったが、天正9年(1581)3月、二郎家筋の兵部之(助)の論功行賞不満から本城龍松山城の乗取りと伯父(万呂殿)の暗殺を行ない、城取りは失敗し遂電したという。そのため龍松山城の第一外郭と第三外郭は手薄になったといえる。この4年後の天正13年(1585)秀吉の紀南征討は、山本氏の内部情勢を見抜いた戦法でもあったといえよう。