●中世末上富田の城館跡 |
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龍松山城跡は、町内の北端部、富田川の右岸、市ノ瀬の この市ノ瀬は熊野詣の通過地で、熊野御幸には「石田一ノ瀬昼養所」の御宿や「石田一ノ瀬垢離場」が設けられた所で、中世の熊野参詣記には必ず「石田一ノ瀬」の地名が登場する。 龍松山城の築城時期は16世紀で、富田川流域一帯と田辺・日高郡の一部を領有し支配した山本氏の本城で、城跡の規模は、『紀伊続風土記』を作成するにあたって、文化5年(1808)に提出された『風土記新撰ニ付御尋の品書上帳』に、 |
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とあり、遺構からも中世的な域郭というより近世的な城郭に近いものと推定されているのも、当地にも天正年間、戦法の変化(鉄砲・大砲−大筒−の使用)や直属武士団および商工業者の城下集中に伴って改築されたものであろう。大筒・鉄砲の稽古が鷹ノ巣平で行われ、また、城下集中には「家中偖士、民百姓入交り、伊野小山より下栗山迄、汗川より峯ヶ原奥観王寺迄、向寄之□町□人家也」(興禅寺古記録)とあり、また、城下の東西隅に重臣の住宅(東角に田上理兵衛、西角に熊代内匠(之)助、鈴木弥平次、その北側に千石権平の屋敷)さらに、対岸の領主下屋敷(坂本付城)の東隣台地上に家老の熊代左近之丞、西隣台地上に家老の玉置図書之介の屋敷が配置されている。初期の城下町であることが窺われる。 |