上富田の石塔  (その1) 

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 まえがき

上富田の中世から近世初頭を知る一つの手掛りとして「石塔」をとりあげたが、今回は、そのうちの“板牌”と“一石五輪塔”について述べることにした。

 石塔とは石卒塔婆のことであり、卒塔婆は古くいろいろな漢字で表されている。窣都婆・浮図・浮屠・高顕。本来は「そとば」で、広い意味には高層建築の三重・五重塔や多宝塔、また石造の五輪塔、角塔婆、板塔婆から経木塔婆に至るまで、その範囲に入れられ、その起源はインドのスッーパにある。

 〔スッーパ〕釈迦入滅後、その仏舎利を納めた上に建てられた。しかしその後、釈迦に関連のある聖地を記念する施設として、インド各地に多くスッーパが建った−スッーパの語は舎利を納めた釈迦の墳墓に始まったわけではない−サンスクリット辞典によると、「本来の語義は頭頂に髪毛をくくった形を意味する」もので、五重塔でいえば頂上の露盤・覆鉢・相輪の部分に当たる。卒塔婆はインドから中国に伝えられ、わが国に伝えられたものである。わが国では石塔の種類として層搭、宝塔、宝篋印塔ほうきょういんとう、五輪塔、板碑、笠塔婆かさとうば無縫塔むほうとう(らん塔)石幢その他長い間に変形した様々な形をした石塔があるが、すべて仏教的礼拝対象物である。

 石塔のことを、普通石碑とが墓碑ぼひ墓標ぼひょうとか、墓石とか単に墓と呼ばれている。本来「ハカ」はかなり広い場所を示す語で、石塔のような埋葬地上の施設を意味しない。墓上の施設をそのように呼ぶことは、すでに平安時代の昔から混乱して用いられたという。

 卒塔婆と墓碑について、川勝政太郎博士の『日本石材工芸史』(昭和32年 綜芸舎版)の記述を参考にあげると、

 「卒都婆そとうば」に「桃山・江戸時代に至っても一般的には石卒都婆は退化しながらも、餘喘よせんを保ったのであるが、また一方に卒都婆形を用いた墓碑が作られて、一見してはその区別が明らかでないものも生じて来た。」

 (三宝寺無縁墓地一石五輪群)
 (三宝寺無縁墓地一石五輪群)


 「墓碑」では「古くから行われて来た古塔婆、即ち石塔と近世の墓碑とは、内容的に全く異なるものである。石塔は仏・菩薩を本尊として塔に現し、供養塔として用いるのが本義であり、これから転じて墓上に供養石塔を安置して墓塔とすることが行われたのであって、それは単なる墓標ではないのである。鎌倉時代までは庶民階級が個人個人の墓塔を作るという風はなかったが、室町時代に入ると庶民の小型墓塔が多く造立される機運が開け、古い惣墓には小型石輪塔、一石五輪塔、小型卒都婆の類がにわかに数を増して来た。この傾向は桃山・江戸時代に入って新しい形式の墓塔ならぬ墓の標識としての墓碑を出現せしめ、これは広く庶民階級に浸透して、到るところの墓地に墓碑を林立せしめることになった」。とある。