上富田の石塔  (その1) 

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 板碑形式 (近世板碑) 
  正式(本格的)な板碑を簡略化した形式で、花崗岩や砂石など厚味のある石材でつくられ、板碑とはかなり異なった形のもので、上部の二条線や額部はなくなり、頂部が前方にわん曲した舟形光背式のもの、ときには自然石に手を加えないでそのまま使用したものなどある。これらは正式の板碑と区別して考えられている。町内にも造立がみられるので収録した。
 
 (玉置家墓地板碑)
(玉置家墓地板碑)
 (三宝寺五輪板碑)
(三宝寺五輪板碑)
 (生馬観音寺無縁墓地板碑)
(生馬観音寺無縁墓地板碑)
 1.興禅寺墓地板碑   市ノ瀬

 興禅寺墓地板碑は、玉置家墓地と無縁墓地に五輪塔形板碑が一基ずつがある。

 玉置家墓地板碑は、凝灰ぎょうかい岩製、総高92センチ、幅30センチ、厚さ約16センチで完存。頭部は山型につくり、身部上部も山形にし、二重枠をめぐらし、表面に五輪塔を薄肉彫りし、根部に蓮座を彫り、地輪部右側に、「承運院殿天義玄忠居士」、左側に「莝嚴院殿香雲正連大姉」と玉置図書頭直俊夫婦の法名を陰彫いんちょうし、背面は荒けずりのままであるが「天正十六戊子年十一月」「玉置圖書頭之搭」と陰刻されている。しかし江戸時代通有の石塔形式である。

 玉置図書頭は竜松山城主山本主膳正康忠の母方の伯父に当り、日高郡和佐城主玉置永直の弟、天正9年(1581)康忠の後見役として市ノ瀬に迎えられた。同13年の秀吉南征後の残党探索で発見され、同16年(1588)11月2日割腹したと伝えられている。

 (註)直俊の歿年月日について、田上憲一著『隠れたる南朝の忠臣、市之瀬殿山本氏』の文中「九、田上由元入道と玉置図書の最後」では、15年11月2日となっている。また、法名について、興禅寺の位牌『山本氏一族各々霊位、龍松城家臣各々霊位』によると「承運院天義玄忠居士」と記される。

 2.興禅寺墓地板碑   その2
  無縁墓地内に祀られる。砂岩、完存、総高53センチ、幅22センチ、厚さ約6〜10センチ、舟型光背にやや変った五輪塔型を線彫し、地輪部に「義哲禅定門」と陰刻す、石工の自由な考え方による造形技術の変化であろうか、町内では他に見当たらないが、田辺市稲成町の田川道への地蔵祠内に類似品がある。
 3.三宝寺無縁墓地板碑   岩田
  三宝寺無縁墓地板碑は、砂岩製、高さ35センチ、幅17センチ、厚さ約7センチ、身部全体に五輪塔を薄肉彫りにしている、他に銘文はない。
 4.観音寺無縁墓地板碑   その1   生馬

 花崗岩製。総高115センチ、幅31センチ、厚さ約20センチ完存、頂部を山形につくり、身部周囲に枠を帯状にめぐらす、上部は花頭型に彫り、根部に蓮座をつくっている。碑面には、

元禄四丁天

(梵字)「キャ」「カ」「ラ」「バ」「ア」心宅是三信士

十月八日

と陰刻している。中央に搭形や名号などなく五大の種子を彫っている。石工の自由な考え方による造形技術の変化であろうか、板碑形式では珍らしく、五大種子板碑。五輪搭形式と同一の功徳くどくがあると願って造立されたものであろう。元禄4年は西暦1691年で江戸時代前期の造立である。

 5.観音寺無縁塔墓地板碑   その2

 砂岩の山形板状自然石、総高74センチ、幅22〜50センチ、厚さ約12センチ頂部をやや尖り、碑面の中央に

(梵字) キリーク 南無阿弥陀佛

とのみ陰刻した簡素なものである。

 6.観音寺無縁墓地板碑   その3

 頂部山形の板状の自然石、総高130センチ、幅32センチ、厚さ約24センチ、碑面の中央に、

(梵字) キリーク 南無阿弥陀佛

と陰刻しているように、名号板碑で浄土教系の浸透により造立されたもので、六字名号板碑ともいわれる。江戸時代のものが多い。