●上富田の石塔 (その1) |
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板碑形式 (近世板碑) | |||
正式(本格的)な板碑を簡略化した形式で、花崗岩や砂石など厚味のある石材でつくられ、板碑とはかなり異なった形のもので、上部の二条線や額部はなくなり、頂部が前方に彎曲した舟形光背式のもの、ときには自然石に手を加えないでそのまま使用したものなどある。これらは正式の板碑と区別して考えられている。町内にも造立がみられるので収録した。 | |||
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1.興禅寺墓地板碑 市ノ瀬 | |||
興禅寺墓地板碑は、玉置家墓地と無縁墓地に五輪塔形板碑が一基ずつがある。 玉置家墓地板碑は、凝灰岩製、総高92センチ、幅30センチ、厚さ約16センチで完存。頭部は山型につくり、身部上部も山形にし、二重枠をめぐらし、表面に五輪塔を薄肉彫りし、根部に蓮座を彫り、地輪部右側に、「承運院殿天義玄忠居士」、左側に「莝嚴院殿香雲正連大姉」と玉置図書頭直俊夫婦の法名を陰彫し、背面は荒けずりのままであるが「天正十六戊子年十一月」「玉置圖書頭之搭」と陰刻されている。しかし江戸時代通有の石塔形式である。 玉置図書頭は竜松山城主山本主膳正康忠の母方の伯父に当り、日高郡和佐城主玉置永直の弟、天正9年(1581)康忠の後見役として市ノ瀬に迎えられた。同13年の秀吉南征後の残党探索で発見され、同16年(1588)11月2日割腹したと伝えられている。 (註)直俊の歿年月日について、田上憲一著『隠れたる南朝の忠臣、市之瀬殿山本氏』の文中「九、田上由元入道と玉置図書の最後」では、15年11月2日となっている。また、法名について、興禅寺の位牌『山本氏一族各々霊位、龍松城家臣各々霊位』によると「承運院天義玄忠居士」と記される。 |
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2.興禅寺墓地板碑 その2 | |||
無縁墓地内に祀られる。砂岩、完存、総高53センチ、幅22センチ、厚さ約6〜10センチ、舟型光背にやや変った五輪塔型を線彫し、地輪部に「義哲禅定門」と陰刻す、石工の自由な考え方による造形技術の変化であろうか、町内では他に見当たらないが、田辺市稲成町の田川道への地蔵祠内に類似品がある。 | |||
3.三宝寺無縁墓地板碑 岩田 | |||
三宝寺無縁墓地板碑は、砂岩製、高さ35センチ、幅17センチ、厚さ約7センチ、身部全体に五輪塔を薄肉彫りにしている、他に銘文はない。 | |||
4.観音寺無縁墓地板碑 その1 生馬 | |||
花崗岩製。総高115センチ、幅31センチ、厚さ約20センチ完存、頂部を山形につくり、身部周囲に枠を帯状にめぐらす、上部は花頭型に彫り、根部に蓮座をつくっている。碑面には、 元禄四丁天 (梵字)「キャ」「カ」「ラ」「バ」「ア」心宅是三信士 十月八日 と陰刻している。中央に搭形や名号などなく五大の種子を彫っている。石工の自由な考え方による造形技術の変化であろうか、板碑形式では珍らしく、五大種子板碑。五輪搭形式と同一の功徳があると願って造立されたものであろう。元禄4年は西暦1691年で江戸時代前期の造立である。 |
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5.観音寺無縁塔墓地板碑 その2 | |||
砂岩の山形板状自然石、総高74センチ、幅22〜50センチ、厚さ約12センチ頂部をやや尖り、碑面の中央に (梵字) キリーク 南無阿弥陀佛 とのみ陰刻した簡素なものである。 |
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6.観音寺無縁墓地板碑 その3 | |||
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