●上富田の石塔 (その2) |
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宝篋印塔 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1.正福寺の宝篋印塔 岩崎 岩崎の正福寺境内にある。凝灰岩製。高さ36センチの二重基壇をつくり、その上に反花座と請花座をおき、その上に総高185センチの宝篋印塔をおいている。搭身は請花座の上に高さ25センチの方形で月輪を陰刻し、金剛四仏の梵字を薬研彫りしている。基礎は高さ20センチ、幅45センチで、正面のみ輪郭をまき隅切りをしている。なかに四方仏の一つを薄肉彫りしている。他の側面には
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(正福寺の宝篋印塔) |
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と陰刻されている。この石塔の銘文は、京都五山の一つである東福寺の262代の住持(管長)玉嶺守瑛(富田の野田家の出身である。宝永四年1707=`安永8年1779≠ナ、世寿73歳)の撰文である。 宝暦癸 未は同13年で、西暦の1763年江戸時代中期の造搭である。 なお、岩田・上田熊の祇園社境内の宝篋印塔は、やゝ大形であるが銘文は同文である。 しかし造搭年月日は10年後の明治九年(1772)である。また、当搭は三面(一面は一行七字、七行)に刻まれに対し、祇園社の宝篋印塔は四面(一面は一行七字、七行)に刻まれる。 |
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2.円鏡寺の宝篋印塔 朝来 円鏡寺本堂の南側墓地にある。完存。凝灰岩製。高さ51センチの切石積み二重基壇をつくり、その上に反花座と請花座を設け、総高240センチの宝篋印塔をおいている。搭身は月輪内に四仏の梵字を陰刻している。隅飾突起は一弧で輪郭をまき、渦文のある美しいつくりであるが、大きく外方に開いた江戸時代通有の形式である。基礎側面には、
更に反花座側面には、
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(円鏡寺の宝篋印塔) |
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と陰刻されている。文政六年は西暦1823年で江戸時代後期の造立である。日本全国66州を廻国することは難行で、時には志半ばにして死に至る場合も多い、それ故に自らを行者と呼ぶ、町内で廻国供養に宝篋印塔を造立しているのは、この一基のみで貴重な信仰資料である。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3.祇園社の宝篋印塔 岩田・上田熊 上田熊・祇園山山頂の祇園社境内にある。相輪頂部の宝珠の一部を欠くほかは完存。凝灰岩製。高さ48センチの切石積み二重基壇をつくり、その上に反花座と請花座を設け、搭高132.5センチの宝篋印塔がおかれている。搭身には月輪内に金剛界四仏の梵字を刻み、笠は軒上六段、下二段型、隅飾突起は覆輪付一弧の無地で、大きく外方に開いている 基礎側面には、
と陰刻されている。この石塔の銘文は、岩崎・正福寺の宝篋印塔の銘文と同文で、京都五山の一つである東福寺の262代の住持(管長)王嶺守瑛(富田の野田家の出身で、宝永4年〜安永8年−1707〜1779、世寿73歳)の撰文、明和9年は西暦1772年で、江戸時代中期末である。 4.興禅寺の宝篋印塔 興禅寺宝篋印塔は、本堂裏観音堂横にある興禅寺第1号経塚の上にある宝篋印塔で、凝灰岩製。高さ48センチ、切石積みの上に請花座と反花座を設け、高さ24センチの基礎があるが近世宝篋印塔の特有の請花座・搭身・笠部・相輪はなく、別の笠・相輪がのせられている。基礎側面には、 |
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石塔造立の紀年銘や経典を納めていることが刻まれている。安永6年は西暦1777年で江戸時代中期末である。なお、昭和60年(1985)境内整備中、長方形の石室遺構が発見、約7万個の経石が出土した。その中の目録石とこの搭身に書かれている経典名が一致することから、この宝篋印塔は経塚の経碑であることがわかった。 (参照『上富田町史・史料編下』「第三節・上富田町の主要な経塚」) |
(興禅寺の宝篋印塔) |
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5.門垣墓地の宝篋印塔 市ノ瀬・両平野 市ノ瀬・両平野の門垣墓地内の六地蔵の傍らにある。凝灰岩製。基礎と反花座の間に、後世の「三界万霊」の別石を狹みこみ、異様に高くしている。また相輪を欠損する。別石「三界万霊」を除いた現存の高さは、60センチである。基礎は高さ23センチ、幅25センチ、奥行24センチで、四面には輪郭をまき、その中に格狹間を彫刻している。 搭身は14センチ方形で、月輪内に金剛界4仏の種子を刻んでいる。笠は下端二段、上端は6段の段型につくられている。隅飾突起は無地で、やゝ長味を帯びている。町内で基礎部に格狹間を彫刻しているのは、当搭のみで貴重な資料である。銘は基礎裏面に刻されていたのであろうが摩滅して解読は不可能である。形式からみて南北朝時代の造搭であろうと推測される。 |
(門垣墓地の宝篋印塔)
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6一乗寺の宝篋印塔の銘 市ノ瀬・後代 龍松山城の南麓の一乗寺大師堂に接した墓地にある。搭身、笠、相輪を欠くために、現在新しく造った宝塔をのせて異様な宝篋印塔にみえる。砂岩製。高さ60センチの切石積み二重基壇をつくり、その上に高さ33センチの基礎を設ける。基礎側面には、
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