朝来伝馬所はどこに設置されていたのであろうか。現在は所在地を示す文献史料の発掘がなされていない。
『朝来郷土誌』が
大辺路街道 大字朝来梅田にて田辺より来れり(中略)大字岩崎より郵便橋を渡り(中略)新宮町に向う県道熊野街道の一
中辺路街道 大字朝来梅田にて分岐(中略)岩田・市ノ瀬・鮎川の諸村を経て(中略)本宮に至る県道熊野街道の一なり
と記しているように、梅田で大辺路と中辺路は分岐しているが、中辺路が朝来村梅田を起点にし、真砂で旧中辺路と合するようになったのは、明治四十三年の県道整理によってである。
現在国道42号と311号の分岐点に立てられている道標は、元は上通り(梅田)の大辺路と中辺路の分岐点に立てられていたものを移転したといわれている。この道標は写真のように「右大遍路、左中へ路」と刻まれ、側面に明治三十一年建立と刻記されている。この頃から中辺路といわれていたのだろうか。
この道について『和歌山県史・近現代史料一』所収の明治十九年度地方税補助道路は、朝来村を起村に市ノ瀬・鮎川・北郡・真砂を経て栗栖川村に達村する道路を、栗栖川通朝来往来といっている。「旧岩田村文書」にも二十四年に朝来往来、二十六年に富田川沿朝来往来とある。明治三十三年十一月に県令第八十三号を以て県道に編入されて朝来街道と街道名が付された。明治四十四年陸地測図の五万分一地形図にも朝来街道の名号が付されており合致している。
この時点では大辺路を熊野街道といったが、朝来から分岐した道の公称は朝来街道であった。これが大正二年四月以後は熊野街道中辺路筋と公称され、旧中辺路の真砂から田辺町までを田辺街道と称するようになった。
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