●朝来伝馬所と大辺路 

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 富田川両岸を通る大辺路

 朝来伝馬所の所在した下内代からの大辺路は、『紀伊続風土記』『紀伊国名所図会』の記述によると、富田川を渡って保呂・内ノ川・社川(庄川)を、富田川に沿って十九渕村に至り、芝村・高瀬村から富田坂へとつゞいた。『紀伊続風土記』所載の岩田郷と富田荘の絵図も記述どおりに描かれている。

 明治二十一年輯製・三十五年修正の参謀本部陸軍部測量局の二十万分一地勢図と、明治三十年『改正実測和歌山県管内明細全図』も、朝来から富田川を渡り、保呂・内ノ川・庄川・十九渕へと連る道筋を示している。

 三山参詣の下向道と案内された大辺路の順道を、『紀南郷導記』『熊野参山独案内之記』は、富田高瀬から芝村・伊勢谷村・平村・内野川村・保呂村と記し。朝来村馬次に至るとしている。平村だけ対岸であるが『紀伊続風土記』と同じ順路である。

 『熊野日記』が記している道筋を抽出すると、

 新庄峠をこえて、朝来の大内谷より右へ岩崎村を経てゆく(中略)富田川の保呂の堤をくだり(中略)たひら、芝なとという里を過ぎ、高瀬の里にて昼の物くふ

とみられる。左右両岸の村を誌しているから道筋の確定はできない。

『紀伊続風土記』の順道と異なった道を記述しているのは『熊野巡覧記』である。

 伊勢谷村より田辺へ順道、川際を上へ行て千足の渡し、川を越て平村・野田川原(中略)川向に保呂・一ノ瀬・相賀村里多く見ゆ

というように、大辺路の順道を平村・岩崎村の側に設定している。同じ道筋を『從紀州和歌山同国熊野道の記』

 富田村 在家有之 在所入口に川有、此川にも水なき所四五ヶ瀬、川原を順道とす

 岩崎村 在家有之 小き山有 在所の入口右の方に松林有之、此中に石仏の不動有之(中略)順道に長サ六七間土橋有之

と述べている。富田で富田川を渡り、岩崎村へと川原を通り、不動坂を越えて朝来へと順道で惣田川に架せられた土橋を渡るというのである。『熊野街道沿村取調私記』も平村から不動坂を越え、惣田川に架かった土橋を渡って朝来村へという沿村を図に表している。

『湯峰温泉の日記』

 大へち道という方に物す、朝来坂打こえつつ朝来村、平村なといふを行く(中略)富田川いとひろし、かり橋をわたりて十九渕といふあり 

と叙述して、平村から仮橋で十九渕へ渡っている。

「寛政六年十一月殿様被爲成之節諸御用」によると、藩主冶宝は三山参詣の帰途に、十九渕村 富田川舟渡し

とみられ、十九渕村から平村へ舟渡しで渡り、朝来村で休息したことを記している。

「風土記新御撰ニ付御尋之品書上帳」には

 富田川 但川巾東西堤より堤迄九拾間程、但冬分は板橋掛ヶ置、水出之節ハ中村芝村之境ニて船渡仕候 と書上している。

 このように、大辺路は十九渕村と平村のあたりで、千足の渡・かり橋・板橋・舟渡などの方法で富田川を渡り、岩崎村を経て朝来村に至る道筋が順道であると記録している。

 ところが『紀南御導記』は瀬戸浦から田辺への道筋は大辺路ととらえないで

 瀬戸浦ヨリ田辺ヘ行クニハ才野村ニ出デテ、夫ヨリ小山村・高井村・血深村・平村・野田村・岩崎村・朝来村・新庄村・田辺ナリ

と瀬戸と田辺の往来というような書き方で、大辺路の順道とみていない。

「天明三夘十一月大殿様御成留書」にも

 明日御道筋陸通り、田辺・新庄・朝来・岩崎・平・溝端・高井・才野、夫より湯崎へ御成之御槙御座候

とみられるが、この道筋も湯崎までの通過する村々を列挙したにすぎず、大辺路を意識したものではなかったと思える。

 列挙した記録は朝来村から分かれて富田川の両岸を、夫々通過し、十九渕村・高瀬村へと富田で合体している。記述者は両道ともに大辺路として書いているように思える。

 それでは藩政期に近い明治頃はどう認定していたのであろうか。

 大正四年に脱稿したといわれる『朝来郷土誌』は、大辺路の道筋を梅田で中辺路と分岐し、下村の上通り、里田から岩崎村の田尻・寺谷・坊垣内・蓮ヶ池・野田を通り、郵便橋を渡って内ノ川から新宮に至るとしている。

 郵便橋は何時頃架設されたのか明らかでないが、明治五年に十九渕に富田郵便取扱所が開設され、富田と田辺から逓送されてくる郵便物を、岩崎村野田の郵便引継所で授受したが、富田川が出水すると引き継ぎができないので橋を架け、郵便橋の命名したといわれている。

 明治十六年八月一日調整の『和歌山県紀伊国西牟婁郡図』では、岩崎村と内ノ川村の間を流れる富田川には何の印も入っていない。これは郵便橋が架けられていなかったからであろう。十年後の明治二十六年の「旧岩田村文書・県訓令綴」の中には、

 瀬戸鉛山往来、熊野街道西牟婁郡朝来村大字岩崎富田川橋北詰ニテ岐レ(後略)

とあり、この時点では郵便橋の名号は付けられていなかった。しかし、八年後の明治三十四年七月十日付『牟婁新報』の記事に、郵便橋の名が出てくる。また陸地「明治四十四年測図」にも郵便橋の名号が付されている。

 『和歌山県誌』よると、明治十二年以前に仮定県道に熊野街道(大辺路)が編入されている。この道筋を『和歌山県紀伊国西牟婁郡図』は、新庄・朝来・岩崎・内ノ川・庄川・十九渕・芝・高瀬と太線で示して「往還」とし、岩崎から分岐して平・栄・中・才野とつゞく道は細線で「里道」としている。これは前記『管内明細全図』や「三十五年修正地勢図」も同じである。

 このように明治になると朝来・岩崎・郵便橋(富田川橋)・内ノ川の道筋が、仮定県道熊野街道に編入され、これを大辺路とされたことがわかる。

 以上をまとめると、近世における大辺路は「大へち道といふ方に物す」というように、旅人の思いによって歩いた道が大辺路であった。それが官道としての大辺路であるかどうかは別にして、敢て穿鑿せんさくして歩いたものではなかったといえよう。また下向道を記した案内書も、順道を厳密に官道=街道か里道か調べたものでなかったと思われる。いみじくも長沢伴雄が述べている平常の道と浸水時の道のちがい、それは共に大辺路であったのであろう。

 旅人の多くが辿ったであろうと思われる岩崎村から平村に至り、千足の渡・かり橋・板橋・舟橋で渡河した道筋は、歩行者にとって便利で都合のよい道であったのであろう。

 しかし、公用の貨客や飛脚など朝来伝馬所で継立を必要としたものは、下内代から富田川を渡り保呂・内ノ川・庄川・十九渕を経る官道を通らなければならなかったのである。藩の編纂した『紀伊続風土記』が、富田川東岸を通る道を大辺路としたのは当然のことであるといえよう。

 明治になって西岸の道が仮定県道になったのは宜なるかなといえる。しかし、この時点で平村までの大辺路は消えたといえる。

昭和20年頃の郵便橋

昭和20年頃の郵便橋