●南方熊楠と上富田町 

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 はじめに  

     山中裸像(明治43年1月28日 岡越えの途中写す)

  南方熊楠みなかた くまぐす在野ざいやの研究家である。慶応三年(1867)四月、和歌山城下に生れ、和歌山中学校を卒業後上京、大学予備門(現東京大学)に入学したが二年次に中退、その後アメリカ、イギリスと十四年間にわたり遊学、関心のおもむくままに野外に植物の採集をしたり図書館に入って書物をあさり、自然科学、人文科学の諸分野に幅広く研究を深めた。

 明治三十三年(1900)に帰国、一年を故郷で過ごしたのち、弟の酒造会社の支店のある東牟婁郡勝浦村(現那智勝浦町)へ入った。山も海も、人情も風俗も、ことさらに近代化の波を受けていない、日本の原郷げんきょうともいうべき「熊野」に学問研究の豊富な材料を得たいと思ったからである。勝浦からは原生林のある那智山はほど近い。二年あまりを那智山周辺の隠花いんか植物の調査に費したのち、研究の場を田辺に移した。明治三十七年十月のことである。

南方熊楠がこの付近の人びとと深く関わりを持つようになるのは田辺転居以後、ということになるが、日記によると那智山滞在中の明治三十五年十月、田辺・白浜に遊んでその間に朝来の大沼を見に訪れたようだ。

 十月十一日 朝、多屋勝入道(名、勝四郎)、川島(名、友吉)二人と新庄より朝来沼あっそぬまに遊ぶ。前日熊五郎と共に休みし店に弁当くう。栗原万吉という名なり。川島、メダカ(ダンバイという)の体に寄生せる緑色藻とりくれる。珍品なり。

とある。当時は淡水に生える藻の収集に熱心だったので、以後大沼はかっこうの調査地となる。