●南方熊楠と上富田町 

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 上富田の民俗書留め

 南方熊楠は田辺及び付近村の風俗や習慣を知るのに身近かな人の言うことを注意深く聞き、書留めた。書留めは主として日記帳の余白を利用したが、大正二、三年には「郷土研究」などに精力的に投稿したため、収集にも力を入れ、日記帳だけでは収まりきらず、日頃書物の抜き書きに当てていたノート「田辺抜書」(巻三十二)に「随聞録」の項を立てて整理している。

 明治四十二年、小倉米さん(当時十五歳、朝来村野田出身)の話。「萍蓮(こうほね)はゴウライノハナと朝来、野田へんにて名づく。不動坂より朝来沼へ来る間の溝に生ず。此辺に川太郎あり、ゴウライといふ。また茄子(なす)のじ(花のついたあと)とらずに食えは、川太郎に尻ぬかると。シビトバナ、田辺ざい野田辺の方言ニガホウシ」

 同じく米さんの話「村にて四月八日、花を竿頭かんとうかかぐる、同時に草履五足かかぐる。これをはき用れば健康なりと」。

弘法井戸 (朝来)

弘法井戸 (朝来)

 大正二年五月十八日夜、広畑喜之助氏曰く、朝来村と新庄村さかい、新庄峠の朝来村へ下る方に弘法井戸あり。常に泉水満ちて溢れず。清水なり。弘法大師、ここで水を乞いしに、遠方へ汲みに行きて持ち帰り来りくれるを見て、ここより水出しやれり。また、この峠より富田に出る間に、豌豆えんどう植うれば必ず穴もなきにさやの中に虫入る。故に豌豆作らず。隣村新庄等にはそのことなし。これは大師、豌豆を乞いしに土地のもの与えざるを憤りてのことなりと。

 同年五月二十八日夜、稗田浅吉にきく。その郷里、岩田村大字岩田にては、蛍、昼間は鼓虫こちゅう(マイマイムシ)たり。夜に及んで蛍となるといふと。

 またいわく、カシャンボ(河童)夏、うしの日より川に入り、冬、玄猪いのこの日より山に入る。木をる音のまねし、また異様の声より人をよぶと。

 また、ミミヅク、一斗いっと二斗三斗となく。ゆえに麦量むぎはかりと名づくと。

彦五郎堤の頌徳碑 
 彦五郎堤の頌徳碑

 同年六月四日夜、検番の直公にきく。朝来の彦五郎提はしきの幅二十五間(注:約五〇メートル)、上の幅も十間もありつらめ。上にて祭りの馬けしたり。よほど大なる堤なり。(明治)二十二年の水害に崩れたるを近年直せり。この堤の由来、彦五郎というもの、人柱の人選の法を言い出し、おのれそれにあたりしこと長柄ながらの人柱に同じ。右の水害にて崩れし後捜せしも人柱の跡らしきものなかりしと。宇井縫蔵氏同日来状に、岩田村大字たちより生馬いくま村の境界に当れる辺を彦五郎堤という。

 六月六日夜きく。稗和の若いわく、彦五郎、たもとに横にしま入りあり、人柱に入れらると。

 六月七日、宇井縫蔵氏よりの通信。岩田の彦五郎堤は、たびたびの出水にて破潰はかいし、生馬、朝来辺の被害しきりなりしゆえ、奉行ぶぎょう来り地方の人を集め協議し、人柱を入れんとのことなりしも、進んでこれに当らんとする者なし。来る人のうちにて着物に横つぎあるものを人柱とすることとし、検査せしに彦と五郎二人これありしゆえ人柱となる。

 この堤、二十二年の洪水こうずいにてことごとくつぶれおわる。この辺、夜けて通るに往々変死するものあり。同地方はもちろん、田辺地方にても男子の着物に横つぎをむ。

 同年九月十六日夕、上秋津の人坂本善太郎七十余にきく。一つたたら、形分からず。一本足にてサエギ(丸太?)を滑り送るようの音す。富田村庄川しゃがわの牛屋谷から生馬谷辺の山を巡りあるくなり。

 大正三年二月二十八日、稗田仲太郎氏にきく。朝来野田の老人七十余なるがいわく、その人は壮年の時、庄川奥の雪中に七、八歳の男女知れざる小児こどもの、右足のあと一つつづけるを父見出し語り、その人も見にゆきし。一本だたらならんといいしと。

 大正六年二月十九日夜、中原武蔵氏にきく。生馬村の中根という所は、上に弘法山とて松茸まつたけ出ずる山あり。この所、むかし水多過ぎるといいしに弘法大師、しからば少なくすべしという。それにより水つねに地下を通る。生馬口という所に至りまた地上に出るなり。中井久枝いう。弘法、水乞いしになしとて与えざりし。さて、朝来峠弘法井のところでは、わざわざ水汲みに行きて与えしゆえ、この井を出しくれたりと。