●藩政時代の水害と治水  −富田川の災害と治水(その1)− 

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 彦五郎堤と富田川土手普請

 富田川右岸の朝来、生馬、岩田の旧三村が接するあたりの堤防を「彦五郎提」(近年は彦五郎堤防)と呼び、町民はもちろん、町外の人々にもよく知られている。富田川は、このあたりで堤防がよく決壊して田畑の流失を繰りかえしたので、彦五郎という一人の農民(彦蔵と五郎の二人という説もある)が人柱となった。堤防に人柱を埋めてからは、どんな大水にも堤防は切れず、人々の安全を守ったという悲しい話が伝承されている。

人柱伝承の記念碑

人柱伝承の記念碑

 いつの頃からか語り伝えられてきた話であるが、史料的にこれを裏づけるものは残念ながら何も発見されていない。上田萬一は、『上富田文化財』第四号(昭和四一年刊)で元生馬村々長木村慎の文章を引用して、「当地方に伝わる彦五郎の伝説・・」と書き、史実ではなく伝説としている。とはいえ、人柱の恐しい風習がほんとうにあったのかどうかは、たいへん興味深い話であり、また、尊い命を犠牲にして洪水を守ったという話は人々の感動を呼び、民衆の心を強くうって伝承されていく可能性があることは十分に考えられる。

 ところで、各地に残っている人柱伝説の共通性は、人柱になる人物は人柱の人選のとき最初に発言した人であることと、着ている着物の柄が縞模様(たて縞であったり横縞であったりする)が関係しているといわれ、彦五郎堤の場合もその例外ではない。

 そうしたことから、彦五郎の話は忠実ではなく、伝説であると認めながらも、その伝説が生れてくるには、何か証拠になる話があるのではないかと考えたくなるのは当然のことである。

 彦五郎堤の築造についても、木村慎は、慶安四年(一六五一)の村の評議による修築としている。また、『明治以前日本土木史』は承応二年(一六五三)として、ともに一七世紀中ごろの築造を主張している。しかし、残念ながら両説ともその出典を明らかにしていない。

 一七世紀中ごろ、徳川幕府の奨励によって、未墾地の開発が全国的に盛んにおこなわれた。そのため、流路が変わったり、遊水地がなくなったりして、河川の氾濫が各地で発生し、被害が続出しているが、治水工事が盛んにおこなわれたことに関連づけた年代推定と考えられる。

 廣本満(上富田町史専門委員)の分析によると、たしかに田辺領全体の新田の傾向は、元禄期までほとんど開発し尽され、それ以後は停滞状態にあった。大規模な新田開発は、田辺組の湊村や新庄村にみられるが、岩田村、鮎川村、市ノ瀬村、生馬村もこれについで新田開発の面積の多い村である。したがって、富田川の河川敷や川沿いの荒地の開墾がおこなわれたことは事実であろう。しかしながら、これをもってしても、彦五郎堤の築造年次を解くための証拠にしては少し薄弱であるといわなければならない。

 以上のように、彦五郎堤について、文献史料で裏づけることはできないが、毎年のごとく襲ってくる富田川の洪水に苦しんでいるだけに、身を投げ出して村を守った話は、たいへん身近に感じる話であり、修築工事中に発生した事故などによって命を落した人の話なども付け加えられながら語り継がれてきたのかも知れない。