●藩政時代の水害と治水  −富田川の災害と治水(その1)− 

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 宝暦・明和期の水害

 宝暦四年(一七四五)七月一一日に大風雨があり、それによる大出水で田辺領内は大きな被害を受けた。紀州藩主から米四〇石が給付され、田辺町、江川へ一二石三斗八合、在方の組々へ二七石六斗九升二合が配分された。朝来組へは三石七升七合が届いている。

 翌宝暦五年は、六月二六日、七月一〇日、同二八日の三回にわたり、田辺組から人足一五〇人が岩田村大坊前へ出没するよう郡奉行所が命じている。富田川の修築のためである。普請願所にしたがい、現地を見分して普請を実施するのは普請方であったが、普請所へ加人足の動員を命じるのは郡奉行と大庄屋の管轄であった(『万代記』)。

 明和元年(一七六四)六月晦日の暴風雨のときも、田辺組から岩田村大坊前へ普請人足七〇〇人を出すように命じられたが、田辺組では麦作の取り入れと田植えがすむまで延ばしてほしいと願い出ている。日延べは認められなかったが、加人足は半分に減らしてもらっている。 

 同年八月三日の大風雨後普請人足の出動について触書がまわり、一九日には市ノ瀬村へ五〇〇人、二二日には生馬谷口へも五〇〇人の人足が命じられている。このように富田川が出水ごとに領内の組々から多くの普請人足の出没があった。岩田村の大坊前の普請の規模も大きかったが、大規模な普請は村評定だけで対処することができず、郡奉行へ届けて郷役で普請をおこなう方法をとっていた。そのため領主側は、つねに被害地の状況を知っていなければならなかった。

 生馬村では、文化一二年(一八一三)一二月一日に、本郷、生馬谷両村の肝煎が、半年前の五月二八日の洪水によっておこった本郷内の破損個所の修復のため相談した。次の年度の普請願所として普請方へ願い出るためであった。この普請は翌文化一三年に実施され、六月一七日と八月四日に普請方役人栗山甚右衛門が見分している。

 天井川である富田川は、大水が出るたびに堤防が破損した。次の大水まで修復しなければならない危険個所は、朝来組大庄屋が村々へ川除人足を割りあてて修復したが、規模の大きい普請は普請方へ願い出て、田辺領内の他組からの加人足の出没によって修復しなければならなかった。(『上富田町史 史料編』)上 文政十一年「子御用留帳」

 富田川は、奥地と結ぶ河川交通に利用され、この地域の経済活動に深くかかわっていた。とりわけ木材、薪炭など山産物の搬出や、奥地への米麦や日用品の配給には、舟運はきわめて重要な役わりをはたした。それだけに領主はもとより村役人、農民まで富田川の治水には全力を傾けた。しかしながら、この大河を管理していくのは容易なことではなかった。破損個所が出ると、一村のみでは修復は困難で、組あげて、あるいは田辺領あげての対応が必要であった。流域の村々は、舟運やかんがいなどによって恩恵をうけることが多かったが、大水によって破損個所が出るたびに修復工事の出人足と、その費用の捻出に悩まされた。