●明治二十二年の水害と戦後の治水対策  −富田川の災害と治水(その2)− 

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 未曽有の大水害

富田川に架かる生馬橋 (昭和50年ごろ)

富田川に架かる生馬橋 (昭和50年ごろ)

 明治二二年(1889)八月一八日から一九日にかけて、四国中部を北上した台風の影響をうけ、和歌山県内は暴風雨におそわれた。田辺では一九日から二十日にかけて901.7ミリの集中豪雨があった。紀ノ川、有田川、日高川、富田川、日置川、熊野川など県内の主要河川が激しく氾濫し、山崩れも引きおこして、河川沿いの集落や田畑に壊滅的な打撃を与えた。被害は全県内にひろがり、流失または全壊した家屋は県全体で五一九九戸であったが、そのうち西牟婁郡は二四九四戸で48.0%におよび、東牟婁郡は一二九二戸で24.9%、日高郡は七七八戸で15.0%となり、紀南三郡で87.9%を占めている。また水害による犠牲者は、全体で約一三〇〇名であったが、和歌山県下では一二四七人で、和歌山県の被害はいかに大きかったか想像できる。そのうち会津川流域三二〇人、富田川流域五六五人、日置川流域四九人で、それらの合計は九三四人となり、田辺町を含む西牟婁郡に犠牲者が集中しており、なかでも富田川流域の死者は特に多かった。

明治22年水害朝来村円鏡寺より望む

明治22年水害朝来村円鏡寺より望む

富田川災害記

富田川災害記

『富田川災害記』によると、富田川筋の死亡者五六五人は、圧死二三人、溺死五四二人、負傷者五二人、家屋流失七四九戸、半流四七戸、全壊四五九戸、半壊一四八戸、牛馬の死亡が一三六頭である。堤防は各所で壊れ、手入れの行き届いた水田も河原のごとくなっていた。

 とくに土壌の柔軟な水源地帯での山の崩壊が多く、最上流部の山崩れが川をせき止めたので、下流域ではいったん水が引いたとみられた。ところが、その堰が切れて一気に大水が下流へ流れて堤防をあふれ出した。そのため、比較的堅固といわれていた彦五郎堤をはじめ、主要な部分で堤防はことごとく決壊して、家々や田畑、道路を一挙に押し流してしまった。

 さらに朝来村岩崎と北富田村保呂の間が井堰のように泥水をせき止めたことが、朝来、生馬両村の被害をさらに大きくしてしまった。犠牲者も朝来、生馬両村とその上流部にあたる岩田村を加えた三か村で三二六人(富田川筋の57.7%)という結果になった。とりわけ生馬村は、村民の約10%にあたる人々が犠牲となってしまった。

 この水害の復旧には、長い年月と多大の費用、労力を要して、村および村民の財力を苦しめた。被害の甚大であった奈良県十津川村では、直後に北海道へ集団移住をして新十津川村をつくったことは広く知られているが、当地からも屯田兵や一般住民として北海道へ渡っていった人々もいた。