●明治二十二年の水害と戦後の治水対策  −富田川の災害と治水(その2)− 

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 水害の原因と復旧の苦労

 前代未聞の被害をもたらした大水害の原因は、短時間に驚異的な大雨が降ったことが大きな原因であろう。この集中的な雨が狭い川へ流れ込むと濁流は溢れ出すのは当然である。この年は春先からの長雨で地盤がゆるんでいたところへの集中豪雨であったから、各所で山崩れを起こし、立木や土砂が流出して自然のせきをつくり、それが切れて鉄砲水を下流へ流したので、下流に大きな被害を与える結果になってしまった。

 当時の二、三の新聞に、、山林の乱伐と堤防の脆弱性が、未曽有の大水害を呼び起こしたと取りあげている。

 藩政時代に紀州藩は「六木」と称して松、桧、杉、槻、柏、楠の伐採を禁じて「留山」(留林)を定め、撫伐なでぎり(皆伐)を禁じるなど山林保護のための制度を厳重にして伐採地には必ず苗木を植えつけさせた。だが明治期になって解禁になり、山林の伐採も急速にすすんだ。「木の国」と称された和歌山県も、ついに明治十六年(1883)には、乱伐を慎しみ山林の樹木を保護育成するようにとの告諭が発せられ、山野への火入れも規制された。もっとも乱伐がはじまったといっても、木材の搬出に便利なところのみで、奥地などは、まだ伐採が激しかったとは思われないが、藩政時代にくらべて森林の保全に対する注意が払われなくなっていた。

庚申松

明治22年の水害の際この庚申松で大勢の人が助かった

昭和37年ごろ松喰い虫の被害で枯れた(岩田大坊)

 そのうえ富田川の堤防の不備が前々から指摘されていた。明治一四年(1881)に富田川が県の重要河川に指定されると同時に、県は、川筋の各戸長に対して流域の調査を指示したが、その報告はなかなか提出されなかった。県土木部では危険個所の応急補修を順次実施するつもりであったが、地元ではそこまで手が廻りかね、修補の体制がとれないまま、明治二二年(1889)を迎えてしまったのである。町村制実施前の地方行政の実状が如実にあらわれていた。

 被害者は、水が減少後知己縁者の救助をうけ、発掘した家跡の埋没米などで一時をしのぎ、給付された救助米で生命をつないだ。水害の惨状が伝えられるや、各方面から義援金が県庁や新聞社に寄せられた。

 被害地の人々が、衝撃から立ち直り、生活を再建するには堤防をはじめ道路や水路を最初に修復する必要があり、耕地の復旧整備は、それ以後可能であった。そのため国庫の援助を求める声が次第に大きくなったが、復旧工事の着手にはなお多くの時間を要した。

 水害二か月後の一〇月二四日に、三栖村村長西尾岩吉が富田川筋を視察した状況を日記に書き留めている。耕地は川原となり、家屋はほとんど流失し、残ったものもおおむね倒壊している。その痛手にもめげず老若男女が決壊した堤防の仮修繕の工事に従事しているのを見ている。筆紙に尽しがたい惨状の中から復旧するのにどれだけの年月がかかるのかとある。

溺死招魂碑(彦五郎堤

溺死招魂碑(彦五郎堤)

 肉親を奪われ、生活基盤も破壊されて途方に暮れる村民に救助の対策を講ずべき行政も大きな支障をきたして停滞していた。朝来、生馬、岩田、市ノ瀬などの各小学校は校舎が大破して教具は流失、半分余り休校をしなければならなかった。

 政府や県が災害復旧に力を入れ、本格的な復旧工事に取りかかるのは、翌二三年一月からである。堤防の復旧は順調に進んだが、耕地の復旧はなかなかはかどらなかった。富田川から田畑へ流れ込んだ土砂の瓦礫の量は莫大であったからである。田畑の復旧には、その瓦礫を取り除かなければならなかった。土砂の瓦礫を寄せ集めて盛り地を作った(盛り地は昭和初期には数十か所ほどあったといわれる。今では役場付近にわずかに残されているのみで、近年の宅地造成や埋土などによって取り壊された)。

 ようやく富田川堤防復旧工事を終えて…二三年一〇月一八日には竣工式がおこなわれた。

 一方川原と化した耕地も、村民のたゆみない努力によって徐々に復旧し、ほぼ一年後にはある程度回復も見られた。生馬の神官栗栖市太郎らは、同二四年(1891)八月、復旧した彦五郎堤に、「溺死招魂碑」とともに災害復旧の経過を漢文で綴った「西牟婁郡復旧記」の碑を建立した。突然の濁流に命を奪われた人々への鎮魂の思いと、心の痛手にもめげずに辛苦にたえながら、ようやく立ちあがってきた万感の思いであったに違いない。

 それからも復旧の努力は続けられたが、四年後の明治二六年八月一八日にまた水害に見舞われている。小西堤防が決壊して水が氾濫し、またもや人家や耕地を流失した。新築間もない生馬小学校の校舎も残らず流されてしまった。

 この水害で生馬谷の被害が大きかった。明治二二年の水害のとき上流で山崩れがあり、谷川を塞いだが、その堤が一挙に切れて鉄砲水が寄せたからであった。明治二二年の災害の教訓を生かす間もないくらい早く襲ってきた水害であった。

 その後大正・昭和期にかけて富田川の治水問題に取り組んでいる。