●明治二十二年の水害と戦後の治水対策 −富田川の災害と治水(その2)− |
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その後の治水対策 | |
明治末期に治水組合設立の動きがあったが、このときは実現できなかた。大正一〇年になって流域の村長会が中心となり、治水対策の陳情活動がくり返されて具体化していく。 富田川は、山崩れにより流失した土砂が川底に堆積したうえへ、川原の雑草の繁茂が重なって天井川になっていた。川沿いには湿田もふえ、大雨が降ると支流へ逆流して民家や水田に浸水し、道路も水没して人々の生活をおびやかすようになった。
さらに明治二四〜五年ごろに下流の東富田・南富田・西富田の各村の一部の耕地用水施設として、東富田村内の富田川の流路に血深井堰と大井堰の二井堰を設置したことが、上流の農民の不安をつのらせた。大水害以後、年々二毛作の耕地が湿田化し、浸水と冷水が湧出て稲作も減収になっていたからである。以後約半世紀にわたり富田川の治水問題として、流域の村々は取組むことになる。 昭和期になって戦争への道をすすむなかで、本格的な治水問題に取りかかる余裕はなく、せいぜい川除けや小規模な整備にとどまるだけであった。そのうえ昭和十年代になると、食糧増産対策により河原を耕地化したり、グライダーの滑走場を設置するなど、およそ治水とは逆の方向で河川利用を考えるようになった。沿岸住民も、大洪水が起これば大惨事が発生するとの脅威感も少しずつうすれはじめ、整備よりも放置の度合いの方が多くなっていた。 幸いなことに流域を壊滅させてしまうような大洪水もおこらなかったが、出征による労働力の不足や戦死者の増加が、農村をますます重苦しいものにしていた。「ほしがりません勝つまでは」と唱えても、景気があがる状況ではなかった。農業生産も低下していた。日毎に激しくなるアメリカ軍の空襲に、どう被害を食い止めるのかにかかり切りで、とても治水問題どころではなかった。 |