●明治二十二年の水害と戦後の治水対策  −富田川の災害と治水(その2)− 

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 平井堰の撤去

 昭和二二年四月一二日の朝来村会で緊急動議が出されている。平井堰の変更撤去が実現せず、おくれているが、間もなく訪れる梅雨期をひかえ、村民の不安は高まっていたからである。そこで村長は、関係する村々といっしょに、和歌山県に対して期日を定めて井堰の撤去を願い出た。そして、もしその期日まで撤去できないときは、最終的方法を講じてほしいときびしい提案をした。朝来村会の全議員が賛成して採択されている。

 この年七月の豪雨も崩れた土砂が、鮎川〜栗栖川間で富田川に流出しており、もう一度豪雨に見舞われると、市ノ瀬、岩田両村の水田も川原にしてしまうかも知れないと農民たちは心配した。このとき浚渫船を入れ、砂利を採取して川底を下げる意見も出た。田辺土木所長は、根本的な解決策はみつからぬが、上流に砂防堰堤を作り、土砂を防止する。その後浚渫船で砂利を採るのも良い。また富田川を朝来→大内谷→滝内と流路を変える方法も考えられると語っている。

 その一か月前の六月四日の朝来村会は、撤去されずに残されている平井堰について早く撤去するように決議文をあげていた。平井堰は揚水施設ができると同時に撤去する約束であったが、できあがった揚水施設は不十分であったとの理由で、北富田村は井堰の撤去を延ばしていた。朝来村では洪水の危険にいつまでもさらされるのかと不安をかくし切れなかった。

 朝来村長は、関係各村に連絡して、県と北富田村に対して、@昭和二三年六月一五日まで撤去を完了することA六月一五日になっても撤去しないときは、自衛のため上流の住民によって撤去するB撤去した石材は撤去費用として撤去作業の従事者の所得にするの三点を交渉するようにすすめた。こうして治水問題は好転していった。

 『朝来風土記』は、六月一三日にいよいよ揚水施設も完成し、試運転も良好な成績を得たので、平地区民も上流の村々の立場を考慮して撤去を承諾されたと記している。地方事務所長も撤去差支えなしと承認したので、上流の村々からのべ五〇〇人の農民が出て、約60%程度を撤去した。残りは農繁期終了後、全部取除いた。石の数は約三〇〇〇個であったが、これを富田川の危険箇所である野田堤防の捨石に沈め、残りを生馬村と共同で、下生馬の堤防と彦五郎堤防の危険箇所へも投入した。こうして平井堰の撤去は終了した。