●上富田町域の神社合祀強要する県と住民の対応  −岩田村と市ノ瀬村− 

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 神社合祀に反対した南方熊楠
山中裸像(明治43年1月28日 岡越えの途上写す)

山中裸像

(明治43年1月28日 岡越えの途上写す)

 明治三十九年五月開催の地方長官会議で、内務大臣原敬が「地方事務ニ関スル注意参考事項」として、十一項目の訓示をした。このうち四項目が神社の国家統制に関する訓示であった。これは、明治二十一年より実施された町村制と並行して、村落共同体の精神的支柱であった氏神に対し、内務省は神職を常置せず、祭祀も行われない神社の整理を行い、不用になった境内官有財産を、合併した神社へ譲渡し、神社の基本財産として神社の尊厳を計るという、勅令第二二〇号を明治三十九年に発し、一町村一社に整理統合する方針を打ち出したのである。

 しかし、和歌山県では椿蓁一郎知事が明治三十四年十月の郡市長会で合祀誘導を訓示し、三十五年に「神社合祀ニ関スル件」を通達していたから、同三十九年の内務大臣訓示をうけた清棲家敬知事は、県の方針に一致するとして、「神社合祀勧奨に関する件」を五月の郡市長会で訓示した。十月には、神社明細帳の整備と神社の基礎調査を実施し、十二月十七日付で郡市長に神社廃合の基準を示した。「神社の存置并合併標準」として、「村社は一町村に一社を以て標準とす」「無格神社は総て村社以上の神社に合祀せしむ」とした。しかし、「特別の由緒又は理由を有し、維持確実なものはこの限りであらす」と特例を認めていた。特別の由緒とは、武内社・六国史所載の神社、行幸・行啓・奉幣・祈願など皇室の崇敬ありし神社、勅祭・準勅祭社、武将や藩主・領主の崇敬ありし神社、祭神が当該地方に功績・縁故ある神社などを挙げている。

 合祀に應じない神社には県が、境内・社殿の広さや神職の報酬・基本財産・常収などの具備条件の標準を示し、維持が確実であることを誓約させ、経済的な神社維持という側面を強調して、これによって神社の尊厳を保ち、村民の崇敬と精神的統一ができるのだという理論で、村落共同体の内面的精神の支柱であった神社を、政治的強制で合祀を勧奨したのである。こうして、前記したように県下の神社は一三%にまで激減し、八七%の神社は潰されたのである。正しく和歌山県は三重県に次ぐ神社合祀の激甚県であった(森岡清美『近代の集落神社と国家統制』)。

 この神社合祀に対し強く反対したのが南方熊楠である。南方熊楠や毛利柴庵は『牟婁新報』に論陣を張り、県の行きすぎた神社合祀に激しく抗議し、不当性を訴えたのである。神社合祀が却って村民の神社に対する崇敬信仰を妨げている。神社森が払い下げられて伐採され、私腹を肥やす官吏や神職さえあらわれていると激しく攻撃し、更には、南方熊楠によって発見された新種の植物や、貴重な動植物が絶滅する危機に頻していると、自然保護の立場からも神社森の保全と、神社合祀の反対を訴えたのである(南方文枝『父南方熊楠を語る』参照)。

 神社合祀を止めさせようとした南方熊楠は、第二十六回帝国議会に請願書を提出するため、和歌山県選出の代議士である中村啓次郎と山口熊野に、衆議院への紹介を依頼した。ところが中村啓次郎は請願書ではなく建議案に改めた。大日本帝国憲法第四〇条は「両議院は法律又は其の他の事件に付、各々其の意見を政府に建議することを得」とあるによったのであり、中村啓次郎は衆議院の質問演説で桂内閣を追求することにした。演説の原稿は南方熊楠が準備し、議員三十一名の賛成を得て、明治四十三年三月十八日に神社合祀の中止を求める演説を衆議院本会議で行ったが、同月二十二日の政府答弁書は強い調子で拒否を回答してきた。しかし、中村啓次郎は同日重ねて、南方熊楠が提出した資料にもとづいて質問演説を行い、政府の回答内容と現実の相違を厳しく追求した結果、政府は地方庁(道府県庁)に十分な指導監督をすると約束した(『大日本帝国議会史』第八巻)。この答弁を更に前進させた形で内務大臣平田東助は、明治四十三年四月に開催された地方長官会議で、神社合祀に関する指示を行い、基本財産造成規定や境内設備規定などの財政的理由に基く合祀の強制を戒め、地域的に合祀実績に落差があるまま、合祀の強行にストップをかけたのである。 

 こうして、南方熊楠の反対運動は成果をあげたが、帝国議会での質問を建議という運動の根まわしをしたのは柳田國男であった。柳田國男も神社合祀に反対であったが、官吏であった柳田國男は表面に出ることができなかった。それで所謂「南方二書」を自費出版して、内務次官床次竹二郎や和歌山県知事ら各界の名士三十人へ配布した。その反響は柳田國男をして「機運に際会したとも申すべく候」(『南方熊楠全集』第七巻)と言わせるほどの反響があった。

 政府の合祀政策転換をうけて和歌山県も、明治四十四年七月三日付の「学三〇三七号通牒」で「其存置を切望する者有らば、懇ろに神社崇敬の本旨を論し……(合祀の)願書変更の手続きを成さしめられたし」と、神社合祀の強制は事実上終結することになったのである。