●上富田町域の神社合祀強要する県と住民の対応  −生馬村と朝来村− 

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 生馬村の合祀不決行

日吉神社

日吉神社

 生馬村山王に鎮座する日吉神社は明治六年四月に村社に列格し、明治十年六月に両新田と小西の八坂神社、中根の厳島神社を本社本殿に合祀した。同年に生馬の稲荷神社を移転して、境内神社は若宮・八幡・金毘羅・諏訪と合わせて五社になったと、「明細帳」は記している。これは「矮陋神祠」を村社に合祀せよという国の方針によったものである。

 日吉神社の神殿は、入会山関係の裁判で大阪からの帰途、村長木村慎一行が乗船した錦川丸が南部沖で難破、九死に一生を得、重要書類も無事に改収できたことに感じた、村長木村慎が奉行となり、明治四十年十月五日に和歌山県知事の許可を得て、五宇七殿の改築を行った。その用材は生馬村産出の欅や檜を使用した白木造り、屋根は檜皮葺として、明治四十二年二月二十七日に知事へ竣成届を提出した。

 生馬村の神社合祀は、全県で合祀を強力に推進していた時期が、日吉神社改築を行っている時期にあたっていたため、行政は合祀よりも改築に力を注がなければならなかったのであろうか、「明細帳」には生馬村の無格社である砂田の虫逐神社、小西の虫逐神社、鳥渕の鳥渕神社、大谷の住吉神社、篠原の矢倉神社の五社を「明治四十一年四月九日、日吉神社へ合祀許可」したと記録している。しかし、この時期は改築の真っ最中であって、合祀・遷座をすることはできなかった。だから「明細帳」には「合祀済届出」がなされないで空白のままとなって残った。

 「宗教法人日吉神社由緒沿革」は、明治十年六月に合祀された四社について、明治四十三年二月十五日に合祀決行したと記しているが、合祀許可された五社については、「明治四十一年四月九日、合祀ノ許可ヲ受ケタルモ、未タ決行ニ至ラス」と記し、合祀の行われていないことを日吉神社が認めている。

 生馬村の一村民は神社合祀の決行されていないことを喜んで、『牟婁新報』へ投稿し、

先年神社合祀のことあり、為に神社濫伐の厄に遭ひし町村少なからず、然るに吾生馬村は幸ひ此厄を免れ、多くの神社は何れも自然林蓊鬱と茂り、老樹古を語り神社の尊厳愈よあらたかなるを覚ゆ

と述べているように、生馬村では神社森も自然林のままで保存されていたのである。

 現在も日吉神社をはじめ、生馬口の稲荷神社、稗田の矢倉神社、鳥渕の鳥渕神社、大宮の住吉神社、篠原の矢倉神社、鳥渕の地主神社、下生馬の虫逐神社、小西の虫逐神社など、各地区で祭祀する土産神(字神)から、小さな祠まで、それぞれ篤信者によって祀られていることが、『生馬』に紹介されており、神社森は氏子や信徒によって守られているのである。