●上富田町域の神社合祀強要する県と住民の対応  −生馬村と朝来村−   

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 朝来村の神社合祀と移転

 朝来村には村社が、旧朝来村に三社、旧岩崎村に一社があった。岩崎村の岩崎神社(氏子六十四戸)は、明治十年六月に誉田別神、須佐男命を合併しており、境内神社として秋葉神社があった。朝来村には金屋村・上村の諏訪神社、下村に梅田神社と境内神社の愛宕神社、大内谷村の厳島神社があり、四神社はともに明治六年四月村社に列格していた。外に下村上ハ通りに無格社の日隈神社(信徒一一五一人)があり、明治十年六月に梅田神社の境内神社となったが、同十六年十一月二十二日に復旧し、社殿の落成届が十七年に出されている。

大内谷村厳島神社氏子札

 「明細帳」にみられる朝来村の氏子数は、明治十二年に諏訪神社九二戸、梅田神社八二戸、厳島神社一八〇戸で、合計三五四戸であった。この戸数は『上富田町史』史料編の明治九年「小学校開設願」の「朝来村戸三百五十五」と一致するから、杉中浩一郎『紀南雑考』で氏子札について述べられているように、枝郷千束の住民も諏訪神社と厳島神社の氏子であったことがわかる。「壬申戸籍」が解禁されれば明確になると思う。

 朝来村の神社合祀は「明細帳」によると、明治四十一年三月七日、村社諏訪神社・梅田神社・厳島神社と無格社日隈神社を、村社岩崎神社に合祀することが許可され、同年三月三十一日に合祀が決行され、合祀済届が出された。朝来の四神社を岩崎神社「境内へ合祀シ、櫟原神社と改称許可」が三月七日になされた。

 同年八月二十六日に無償譲渡された諏訪神社跡地六畝二一歩、日隈神社跡地一反二畝、厳島神社跡地一反九畝、梅田神社跡地四畝九歩(七畝二五歩に丈量増)の境外所有地の登記を出願し、九月七日に承認された。更に九月四日に境外所有地であった厳島神社の原野一畝十三歩と梅田神社の山林八畝二十八歩が、櫟原神社名義で登記された。

櫟原神社

 ところが合祀決行の翌年に、早くも移転の協議をはじまっていたことが、郡役所から野田村長宛に発せられた通牒でわかる。

 櫟原神社は四十二年七月に、勅令にもとづく財産登録申請を郡役所から求められ、再三請求されている。また、知事宛に提出しなければならない予算書も四十三・四年分がない。そして、四十四年八月二十六日付で郡役所は助役稗田廉宛に、「貴村神社整理并ニ社木伐採ニ関シ面談ヲ要スル儀有之条、谷本神職同道」で参庁するよう達している。翌二十七日付『牟婁新報』は「朝来村礼拝塚の濫材」という南方熊楠の一文を掲載し、「鬱蒼たる大樹小樹悉く伐採中なりと聞く乱暴狼籍も程こそあれ」と批難し、この状況をもたらしたのは、神主が「酒さへ飲めれば好しという奴にや、神主がドウなろうが一向構わず、欺かる次第で神社合祀の為朝来村は全く無神の状体にあり」と攻撃している。これを裏付けるかのように、谷本社掌の再任推薦に当り郡役所より詳細な調査を求められた宮本啓三郎

朝来村礼拝塚の濫伐

(牟婁新報 明治44年8月7日付)

村長は、社掌奉仕以前のことと前置きしながらも

稍ヤ欠点ト認メシハ飲酒ヲ嗜ムノ嫌アリシモノ、如カリシモ失態ヲ演ズル等ノコトナシ、現今極メテ謹慎ヲ表シ挙動真撃ナリ

と回答しているから、南方熊楠の指摘も強ち的はずれでなかったといえよう。

 このためか、同年九月十二日に櫟原神社社掌谷本甚吉と氏子惣代五人全員が、県知事川村竹治宛に「今般同社地敷地整理上ニ関シ事情ノ廉有之ニ村」と、辞職願を提出している。これは『牟婁新報』の記者が指摘しているような社木の濫伐、ぬか塚の取壊ち、社跡の畑地開墾などの計画があったためであろうか。郡役所も神職辞任に関し、十月二十三日付で、「神職辞任ニ到リシ原因及経路・神社ノ状況・合祀跡地ノ状現・合祀社復旧云々ニ関スル事項等」の調査を村長に命じているが、調査報告は不明である。大正三年に谷本甚吉を再任するに当たり、社掌辞任の事由を、

神社合祀後、社殿奉安ノ位置ニ関シ、各字氏子中ノ位置争奪ノ事件起リ、之カ解決ヲ為スニ本人頗ル困難ノ位置ニ在リ、止ムヲ得ズ其責ヲ引キタル次第ナリ

岩崎神社

ともかく社掌が辞任したので、後任社掌を村社櫟原神社の属する郷社日神社の社司吉田磐麿を、氏子総代は兼任社掌として推薦した。これをうけ、村長吉田庄助は副申書を添えて川村知事へ提出した。十二月二十五日付で兼補の辞令が交付された。郡役所は副申で「同神社ノ整理ヲ遂行セシ上ハ適当ノ専務者ニ代ラシメラレ度特ニ申進候」と、合祀と移転の事業を完了するまでの暫定的な社掌として補すると副申しているのである。

 新しく櫟原神社々掌に任じられた吉田社掌の要請をうけた朝来村長は、「兼テ御承知ノ神社移転許可申請ノ件」について、申請提出前に氏子総代との協議を、大正元年十二月十二日に役場で開催した。「神社移転許可申請」は同年十一月二十七日付で、社掌吉田磐麿と氏子総代撫養平七(下村)町田梅吉(上村)土井治作(金屋)遠山藤吉(大内谷)小倉栄七(岩崎)が連名で、川村竹治知事へ提出する申請書を作成した。申請の内容は、岩崎神社に合祀を決行したけれど、社殿狹隘と合併神社の「大御形代」が大きいので、合殿に奉斉することは不可能である。また各神社の社殿を移転しようにも境内が狹隘で出来ない。それで一時凌ぎの方法として御神霊を社務所の一隅に奉斉している。こういう状況なので適当な境内を造営して移転しようと、数十回も協議を重ねてきた。ところが、各神社の氏子の意見がちがってまとまらず五か年を経過した。このままでは神明に対し不敬、国や県の主意にも悖るというので、村長とも協議した結果、大字上ハ通りにある神社所有の山林へ、民有畑地を購入して三〇〇坪として、ここを神社移転地と定め、二三四坪を開拓し境内地とし、残りを神林として、合併神社の社殿を遷座することにまとまった。それで各神社跡地の上ハ木を公売し、収得金の半額を該工費に充用するというものであった。

 櫟原神社移転造営の申請をうけた郡役所は県へ進達したが、県から移転先の立木の有無・状況・地目反別・資金の支出・氏子の醵出・付近の土地関係・図面の進達を調査し具申せよと通牒され、大正二年一月十一日稟議をうけ回答した。

今回ノ移転先地……背部ニハ松樹鬱蒼タル愛宕山ヲ負ヒ、殆ンド其中腹ニ位シ、前面小学校運動場ヨリ約三間ノ高燥地ニアリテ、加フルニ敷地拡大ニシテ一度茲ニ神社ノ造営サルルアランカ、其風致森厳自ラ兼ネ備ルノ好適所タルヲ疑ハズ、又該地ハ村ノ中央部ニアルヲ以テ一般氏子ノ参拝上多大ノ便宜ヲ与ヘ、如何ナル方面ヨリモ見ルモ絶好ノ場所タルヲ信ス

と述べ、資金調達方法や移転地の畑・宅地・原野・山村の合計一反五畝一一歩と図面二通を申達している。これをうけて、同年二月八日に郡役所吏員が移転地と予算の調査に出張してきた。四月八日に「櫟原神社移転建築ニ付、左記人員ヲ建築委員トシ建築ニ係ル事務一切ヲ一任ス」と上村の吉田乕之助、金屋の高垣才吉、下村の真砂丈吉、大内谷の坪内元吉、岩崎の野田常次が移転建築委員に任じられた。委員は各字の氏子へ移転・建築について報告した。十四日に登記手続きや代金支払いを協議し、地主と敷地の交渉も了り代金一八六円六七銭を支出した。

諏訪神社跡

 五月二十日には境内の石垣工事施行の「入札心得」が決められ、札押金十円、保証金は落札価格の十分一、竣成期日は八月十五日限りとして入札にかけられた。入札者は六人で堀金吉が一八二円五〇銭で落札した。その仕様は平坪(一間四方の面積)一九坪の石は野田谷奥山の材料を使用するが、そのうち九坪は新石を、古石一〇坪は旧諏訪神社の石を使用し、石積様は旧諏訪神社の例に準じる。階段も旧諏訪神社の古石を使用し、不足分は野田奥山石で補充するとし、上り道は平坪一〇坪とした。

 同じ五月二十日に「社殿移転心得」も決められ、諏訪神社と弁天社(巌島神社)の旧社殿は六月五日限り新社地の広庭まで運搬し、据石ができ上がり次第、梅田神社と三社を社殿へ運ぶことが札押金五円で入札にかけられた。三社移転入札は九人で入札したが落札者が決まらず、再入札は一人あったが再度決まらなかった。三度の入札は五人で撫養民吉が九七円九〇銭で落札した。

 六月十日に入母屋造りの桁行四間半・梁行二間の拝殿新築が、十人の入札で行われ、下芳養村吉田源吉が請負金二九〇円で落札し、竣成を大正二年八月三十日と契約した。拝殿の屋根瓦は七月六日の氏子総代・建築委員評議会で入札し、小倉仲蔵が八一円九五銭で落札した。

 同日の評議会で各字から人夫を傭い、旧社地の石の運搬・敷地の屋敷(土突)・据石等をすることを決め、工事監督に遠山藤吉・真砂丈吉を任じた。

 こうして櫟原神社建築にあたっての「建築確定費用」(予算)は合計一七四七円一二銭とした。現在金合計は二六八五円八四銭であるが、このうち一千円を基本財産として除き置くので、差引一六八五円八四銭となり、六一円二七銭の不足が生じることになるから、この点は完工後に善後策を講じると、現在金から予算的見通しを立てた。

 こうして七月十一日正后十二時より役場に於いて、「櫟原神社々殿配置ノ件ニ付、社総代及委員会開催」され、村長吉田庄助・神官吉田磐麿・氏子総代・建築委員ら十七名が議した。この結果、

下字ヲ除クノ外、全部元諏訪神社々殿ヲ中央ニ鎮座シ、左側ニ元梅田神社々殿、右側ニ元巌島神社々殿ヲ鎮座スルコトニ一致セリ、依テ村長ハ下字モ同意シテハ如何ト述ブ、撫養平七君ノ申サル、ニハ大勢ノ一致スルモノヲ独リ下字ガ異議ヲ述フルハ不可能ニ付同意致シ度モ、人民一般ノ異議アルヤモ案ジラルル二付、明拾弐日夜字総会ヲ開キ、極力大勢ニ同意スル事ヲ一般ヘ申聞ケルノ心組ナルモ、万一我々共ノ力ノ及バザル場合ハ村長氏ノ援助ヲ乞ヒ、如何様ノ手段ヲ運ビテナリト同意サスル事ニ致スト陳述シ、其結果ヲ明后日村長氏迄報告スルコトニシテ解散セリ

と未結になったが、撫養平七より村長に十三日朝、「当字会合議論百出ノ末、極力相勉メ同意スルニ相成」つたと返事が届いた。これにより、九月十八日付で、一月に郡役所へ回答した「移転地新境内平面図」で示した社殿の配置変更を、社掌と氏子総代四人の連署で川村竹治知事へ「御届」した。郡役所からの移転建築についての照会に対し、村長は、変更の理由を建築「着手ニ至リ多数氏子ノ希望ヲ容レ」たものであると、九月二十二日に回答している。

 九月二十九日に監督遠山藤吉が「拝殿建築工事竣成ニ付建築物検査ノ上工事金引渡ノ件」で委員会を通知した。

 十月十一日の会議では雨漏りの甚だしい中央社殿の屋根葺き替えと、正ノ鳥居は石灯籠とともに上段に、下の鳥居は巌島神社の鳥居を応用すると決めた。

 十一月七日の会議では正遷宮を二十一日と提案したが、青年会より徴兵入営日に当たると変更が求められた。十三日の会議では正遷宮の日程、招待者、役割等がきめられるとともに、本年より櫟原神社の例祭日を十一月二十五・六・七日の三日間にすると決定された。また、従来、例祭は九月二十六日に執行されていたが、農繁期であり、衛生上も懸念あるとして、神社合併移転を機に、例祭日を十一月二十七日に変更するよう、氏子多数の希望であるという理由を付し、九月九日に神職・氏子総代連名で西牟婁郡長松田巳之吉へ「御願」し、村長も「神社例祭日変更ノ件申請」の副申を添えて出願し、許可されたので、十三日の会議に紹介された。

 以上のようにして櫟原神社の社殿・拝殿が竣成し、十一月二十二日に移転式(正遷宮)の決行されたことを告げた竣工届が、十二月三日付で知事へ提出された。

 十二月十一日に村長宮本啓三郎から知事へ「神饌幣帛料供進神社指定申請」を出した。

 吉田磐麿は神社整理を了し、移転遷宮式も決行したので、業務社掌を辞職したいと、十二月六日に願い出て、三月六日に業務を解かれた。

 十二月八日に「櫟原神社建築ニ関スル決算報告」の会議がもたれ「本件ニ関ス結末」とされた。但し決算報告書は不明である。