●上富田町域の神社合祀強要する県と住民の対応  −生馬村と朝来村− 

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 朝来村の神社跡地

 神社合祀で朝来村の四社は岩崎神社へ合祀されたが、大正元年十一月七日付で「神社移転許可申請」が、社掌・氏子総代連署で知事宛に出され、十二月五日に村役場経由で進達された。

西牟婁郡長より神社整理の文書

西牟婁郡役所は同年十二月四日付で朝来村長に、「神社整理ノ件ニ関シ、左記之通牒候也」と発し、

一其村神社整理ニ関シテハ過般来数次商議ノ結果漸ク着手、目下専心御奮励之事ト被存候、然ルニ合祀神社跡地ノ社殿ハ今尚抛棄有之、就中巌島神社ノ跡地ニ於ケル社殿及拝殿ノ如キハ大辺路及中辺路ノ沿道ニシテ、殊ニ周囲ノ樹木伐採セルガ 故、他ノ跡地ニ比シ一層世人ノ悪感ヲ惹起セシムル等、甚タ神社敬虔上ニモ影響シ不都合不尠候付、来ル本月二十日限リ必ス神社々殿及拝殿鳥居等一切取拂ノ実行有之度、尤も励行ノ上ハ其ノ旨報告セラレ度候

 と合祀決行後も残されていた社殿・拝殿・鳥居を撤去せよと、期限を定めて強要しているのである。しかも、巌島神社(糠塚)は樹木が伐採されて社殿・拝殿だけになっているとして最も強く非難している。

 この通牒をうけた朝来村は「梅田・諏訪・巌島・岩崎神社々務所売却入札手続細則」を定め、社務所・拝殿の用材を入札によって朝来村民に売渡すことにし、取払期限を三神社は大正二年一月十五日、岩崎神社は九月として、元年十二月十七日に入札を施行した。厳島神社分は谷地常平が二十五円で、梅田神社分は植田万治が七円五十銭で(古木のみ)、諏訪神社分は高垣才助が三十七円五十五銭で、岩崎神社分は谷地常平が百二十五円で落札した。

 前記の郡役所通牒にもみられるように、神社跡地の樹木を伐採しており、その代金は「大正二年三月三十一日現在資金明細帳」の備考欄に

神社合併跡地立木売却代金二千百円ノ内千百円ハ許可ヲ経テ神社移転費ニ充用、残り千円ハ本社基本財産ニ編入ノ筈ナルモ、今尚本村々長保管預ケヲ為シアリ、然レトモ不日成規ニ基キ郵便貯金又ハ日本銀行預金トナスカ、地方長官ノ認可ヲ得ヲ他ノ銀行預金トナスカ、方今考按中ナリ

 とみられる。この立木売却代金二千百円というのは、拝殿建築の「目録見書」に「柱檜壱丈三尺、四寸四分角、単価弐円也」とあるのから推定しても、膨大な樹木が伐採されたものと推定されるのである。大正五年二月二十三日付『牟婁新報』に投稿した「愛郷生」の「又々濫伐か」は

  本郡朝来村ぬか塚さまは此附近にても名高き神社にて(中略)合祀以前までは境内老樹鬱々と生え茂り、此近郷の勝地として愛惜せられありしを(中略)朝来の住民は此ぬか塚を古神社をワケもなく潰ぶして了ひ、当時本紙上南方先生始め多くの論士が起り大に村民の不心得を責め、郡吏等の軽率を攻め立てしかばぬか塚さまの跡地丈けは元の儘に保存し樹木も伐採から芽の出るのを待ち、せめて此勝地を愛護せんとの事にて事落着し今日に至り(後略)

 と、神社森の伐採を憤慨しているように、神社合祀の進行と伐採が同時進行したことがわかるのである。この「愛郷生」の投稿で名指しされた森関蔵が『牟婁新報』へ弁明に訪れたときの談話によると、「合祀後も森林伐採には異論者多く容易に伐らなんだのを郡役所から喧ましく言ふので已むなく伐ったやうな次第」といっているが、これが事実で、濫伐を命じたのは郡役所であったと思われる。この結果、更に社殿・拝殿・社務所までも取り払うことを郡役所は村役場に強要したのである。

 正遷宮を了えた後「神社跡地整理ノ件」について、大正三年二月二日に社総代会が開かれ、次のような決議された。

趾地ハ、諏訪神社ノ方ハニ畝歩ヲ保存シ、他ハ売却シテ新社敷地ノ買入費ニ充ルコト、氏子持分ニ対シテ相当割合ヲ岩  崎氏子ヨリ出金スリコト

若シ全部売却不可能ノ節ハ氏子持分ノミヲ売却シ負債に充ルコト、但シ岩崎分ノ出金額ハ其割合トスルコト

巌島神社跡ハ約弐畝歩ヲ保存シ、田ニ整理シ得ベキ位置ハ田地トナシ、余ハ宅地トシテ貸与ヘルコト

岩崎神社ハ払下ケヲ受ケ宅地トスルコト、前記整理費用ハ売却代金ヲ以テ充当スルコト

 この決議の具体化は、同年十二月十二日の社総代会で

一元巌島神社跡地ニ現在セン石ハ売却スルコト

 跡地ノ内二畝歩ヲ除キ其他ハ十ケ年ノ契約ヲ以テ貸渡スコト二畝歩発掘ハ村長に一任ス

一岩崎神社跡地譲與許可ノ上ハ個人へ貸付ノコト、小作料ハ一ケ年米三石トス

 と決議された。これにもとづき、大正三年十二月十五日付で、官有地第三種として岩崎神社跡地壱畝弐拾六歩と地上立木について「神社跡地無償譲與願」を知事鹿子木小五郎宛に提出したが、大正三年十二月二十八日付で西牟婁郡役所から朝来村長宛に通牒が出され

其村元岩崎神社跡地無償譲与テ返付セラレ候条、此旨示諭ノ上別紙願書返戻有之度候也

 と無償譲与はできないと願書が返却されたので、大正四年正月十三日に「神社跡地有償譲与願」として再度進達したが、

別紙神社跡地及立木拂下願出候処、登記ノ事由ニ付一先及返戻候条、整理セシメ提出有之度候也

      記

一官有地第三種トアルモ税務署土地台帳面ニヨレハ官有地第一種ニ有之趣ニ付訂正ヲ要ス

一有償譲与トアルヲ拂下願ニ訂正ヲ要ス

一樹木代価極メテ廉価ナルヲ訂シ相当代価ニ見積ヲ要ス

と譲与願は再度返戻された。それで、大正四年十一月十二日付で「神社跡地拂下願」とし、「価格改メ」進達し、十二月六日付で許可された。

糠塚・厳島神社(朝来)

 巌島神社は敷石(煉瓦)を売却し、跡地を貸与することを社総代会できめたからであろう。森関蔵や谷地(常平)、遠山(藤吉)、中井(金次郎)が名義人となり大字が大正四年八月に、一か年一俵で借り受けたと『牟婁新報』は記している。参詣した記者は次のように

  朝来村のぬか塚様に参詣したが、聞きしに勝さる荒れようで実に無残とも残酷とも言ひようもない有様で私は只だ絶望するの外はなかった。今更何んぼ言ふても返らぬ事ながら、アノ老樹神林をムダムダ伐り尽くした人々の所為が腹立たしく感ずる分の事である。前年参詣した時は其老樹の伐り株から芽も出さうに思ふたが、之も掘返されたものか薩張り跡方も無いし(中略)ナニにもセヨ周囲の土地は耕地整理の為めとやらで切崩され、アノ儘にして置けば涙の種となるばかりである。一昨夜青年会を開きぬか塚保存に決したそうなママ(攻略)

 糠塚の神社森の伐採だけでなく、跡地の一反程が開墾されて耕地化されていることを伝えている。

 諏訪神社跡地の山林六畝二一歩を大正四年八月十九日付で社掌谷本甚吉と社総代町田梅吉・土井治作・宮本善太郎・谷地萬吉・小倉逓吉が連署し、鹿子木小五郎知事へ

    土地貸渡ノ儀許可申請

左記ノ土地ハ本村櫟原神社所有ノ処、今般朝来村外ハケ村組合傳染病院敷地トシテ該組合へ一ケ年一坪金拾銭ノ契約ヲ以テ、本年度ヨリ向フ二十ケ年貸渡シ、該収入ヲ村社基本財産へ繰入ルコトト致度候付、右貸付ノ儀御許可相成度、社総代連署此段申請候也

朝来村役場文書

と申請し、同年九月三日に許可された。

 この伝染病院については『上富田史』史料編と本文編に説明されているとおり、建設されたのは神社跡地の外に諏訪神社氏子中持の山林・田・宅地の、台帳面では四九九坪であるが、貸与したのは実測五四〇坪であった。

『上富田史』の史料編にも本文にも紹介されていない、神社の病院組合の貸借契約を紹介しておこう。

  朝来村外八ケ村組合伝染病院

    敷地貸借契約書写

 朝来村外八ケ村伝染病院組合管理者朝来村長宮本啓三郎ハ朝来村櫟原神社所有地管理者朝来村櫟原神社々掌谷本甚吉ト富田川病院跡地借入ニ付左ノ條項を契約ス

 一借入地及面積ハ左ノ通トス

   (借入地略)

   以上実測面積五百四十坪

   必要生ジタルトキハ双方協議ノ上適宜処分スルコトヲ得貸主ハ契約期間内該敷地及神社保存地ニ属スル立木ヲ単独ニテ処分スルコトヲ得ザルモノトス

 一貸地料ハ第三号ノ如ク契約スト雖モ米価ニ著シキ変動アルトキハ双方協議ノ上変更スルコトアルベシ此契約ニハ貸主側 ニテ朝来村櫟原神社総代代表者参与ス

 右契約ヲ確守ノ證トシテ本書ヲ互ニ交換蔵置スルモノトス

  大正六年壱月拾九日

     朝来村外八ケ村伝染病院

        借主 組合管理者朝来村長 宮本啓三郎㊞

     朝来村櫟原神社土地管理者

        櫟原神社々掌 谷本甚吉㊞

        櫟原神社々惣代

         代表者    町田梅吉㊞

 朝来村の神社合祀は岩田村・生馬村・市ノ瀬村とは違ったが、諏訪神社と巌島神社はニ畝宛を神社保存地として残されている。遙拝地とされたのであろうか。

    執筆 廣本 満

       (前上富田町史編さん専門委員)

あとがき

 明治初期に、明治政府の強引な、神仏分離政策により神社の国家管理がすすめられる中で、上富田町内に於いての神社合祀が村民の立場でどう対応したかについて、上富田町史編さん専門委員であられた廣本満先生に執筆をお願いしました。

 廣本先生は、神社合祀について、県下全般にわたり、実態の調査と研究をされる中で、紀南地方の神社合祀と、上富田町の取り組みについて考察して頂きました。

 本稿は「生馬村と朝来村」、前回は「岩田村と市ノ瀬村」について玉稿を頂き有難うございました。

       (編集 谷本圭司 笠松眞年)