●上富田町と小栗伝説  −小栗半官・照天(照手)姫物語− 

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  二、口熊野と小栗街道
 
 小栗が枇杷湯に溶したといわれている東光寺(印南町)
 小栗が枇杷湯に溶したといわれている東光寺
(印南町)
 説経「をぐり」では、

 「阿倍野五十町引き過ぎて、住吉四社の大明神を過ぎ、堺の浜に車着く。松は植えねど小松原、わたなへ・南部引きすぎて、四十八坂・長井坂・糸我峠や蕪坂、鹿が瀬を引き過ぎて、心を尽くすは仏坂、こんか坂にて車着く。

 こんか坂にも着きしかば、これから湯の峰へは、車道の険しきにより、これにて餓鬼阿弥をお捨てある。大峰入りの山伏たちは、百人ばかりざんざめいてお通りある。この餓鬼阿弥を御覧じて、『いざこの者を、熊野本宮湯の峰に入れてとらせん』と、車を捨てて、かごを組み、この餓鬼阿弥を入れ申し、若先達の背中にむすぶと負ひたまひ、上野が原を打つ立ちて、日々積もりてみてあらば、四百四十四か日と申すには、熊野本宮湯の峰にお入りある。」と書かれているが、その注釈には、蕪坂(和歌山県海草郡下津町沓掛の南、有田市に至る坂)・糸我峠・(有田市糸我町)鹿が瀬(有田郡広川町河瀬より猪谷に至る間)・小松原(御坊市、道成寺に近い)・南部(日高郡南部町)・わたなへ(田辺の誤りか)・仏坂(旧西牟婁郡日置川町安居よりすさみ町周参見入谷に至る間の坂)・長井坂(すさみ町和深川と見老津の間)。海岸を通る大辺路の経路をとっている。(田辺から東上して本宮に至る中辺路の経路もある)『新潮日本古典集成・説教集 をぐり』よりとあり、中辺路ルートの小栗街道があったことも述べられている。その中辺路ルート、紀南における小栗街道については、「上富田の小栗街道と伝説」(紀南の小栗伝承・第十一回小栗サミット二〇〇二「口熊野のつどい」記念誌)を引用して考えて見たい。

 新庄と朝来の境界の峠は、新庄峠・朝来峠とも呼ばれ、高さ四〇センチほどの、「道分け地蔵」が祀られている。この地蔵は、道しるべもかね「右ハ大へち道」、「左ハ熊野道」とある。左に行けば飛曽川樫ノ木を経て「三郎坂」を越えて朝来上村に入り富田川を遡る中辺路の脇道になる。

 朝来尋常高等小学校編『児童融和教育の理論と実際』(昭和十一年刊)という本がある。この本は朝来教育に象徴される、全国的にも有名な、融和教育の実践の本である。その本の中で「村の交通」の項に、「旧熊野街道は新庄村より、集落の中央部を通り馬の谷を貫いて岩田村に通ず、その路幅一・五米、旧態のままにして今尚里人の唯一の勝手道となっている。昔小栗判官湯の峯におもむかんとして此の地に至り馬の谷にさしかかるや通路急峻なるを以て此所に憩ふ事しばし、『一脚引いては馬の谷、二脚引いては馬の谷』といった。」と伝えられている。

 安居の渡しの仏坂(旧日置川町)
  安居の渡しの仏坂(旧日置川町)

『紀伊続風土記』では、「生馬村」には、小名救馬谷があり、観音堂、境内周二百八十間、小名救馬谷の山ノ上巌窟の中にあり、と記されている。

 『生馬村郷土誌』には、救馬谷観音の沿革は、「当堂ハ寿永年間ノ創立ニシテ瀧尾山、岩間寺ト号シ阿々彌門流ノ作ナル馬頭観世音菩薩ヲ安置ス 応永十四年 小栗判官報恩ノ為堂宇ヲ再建ス」。また、栗栖家代々記には、小栗判官小次郎助重の妻照姫(照手姫)が報恩のため観音堂を修理したという記述もある。
生馬地区の里唄として、

  「咲いた花より 咲く花よりも 咲いて乱れた花がよい 咲いて乱れて また咲く花は小栗判官照手の姫よ 小栗判官照手の姫は殿のためにと車を引けど ためになるやらならぬやら」

とうたわれている。

 くまの文庫『古道と王子社』には、天仁二年(一一〇九)の藤原宗忠の日記によると、現在の下鮎川の地名を、加茂里とよばれていたと記しているが、いまも上富田町下鮎川に加茂の地名が残っている。

 山手の「かも山」は室町時代に関所があったところで、その跡は明らかではないが、現成道寺のある台地に至るまでのオザケノサカ付近と思われる。熊野古道といわれ、小栗道は、ここを登り、関所畑を経て成道寺の裏を通り、上富田町と大塔村の境界近くの、花折地蔵を通り、昔成道寺があったと言われている寺平の庚申塔、遍路施宿千人供養塔、地主社を経て、いやの谷の王子社あたりまでで、これが小栗道といわれている。

病む人々の歩む道
 小栗街道(南部町埴田)
 小栗街道(南部町埴田)
 小栗街道にて、土車に乗せられた小栗に命名された「餓飢阿弥」という名は、「餓飢病」ともいわれていたライ患者に時宗風の「阿弥」号を付したものとされている(折口信夫『古代研究』民俗学編)。説教小栗はライ者救済がテーマであることは五来重『熊野詣』も説くところである。

 さて五来重は『熊野詣―三山信仰と文化ー』(一九六七)の中で、近年においてもライ患者が中辺路を歩いていたこと、さらに、大雲取の険路躄のライ者が越えていったことを、おどろきを交えつつ報告しているが、昭和初年までの中辺路には時折りそうした光景がみられたのである。

 衰えゆく肉体に大いに勝る、おどろくばかりの強固な精神力がそこにはあった。

 天賦の生命力を力の限り生き抜こうとする精神力、行動力は、健常者よりも数段に優っていたということであろう。彼らの眼には何が映り、彼らの心には何が浮かんだのか。

と、九州大学の服部英雄氏の研究論文『いまひとすじの熊野道 熊野街道聞書』に載っている。

 その多くの病める「餓鬼阿弥・小栗達」を受け入れてきたのが、口熊野は、上富田である。熊野街道の大辺路・中辺路街道の分岐点とし重要な所である。熊野の異界の地への入り口として上富田は位置する。

 異界とは、辺境の地である。海を渡って来た天津神(海女津神)は内界内裏、洛中洛内に鎮座するのに対して、異界の地、熊野は、日本太古から、この「日の本」の国土に土着していた神々、国津神が鎮座する地である。

 小栗判官力石(湯の峰) 
 小栗判官力石(湯の峰)
 小栗判官は説経「をぐり」では、洛外異界の鞍馬山の申し子として生まれ、深泥池の大蛇と契ったという風評で、洛外異界の地、常陸の国に流されてしまう。そして、再び小栗は甦り、都に洛中に戻る。まさに、国津神が鎮座する熊野は、人間が復活する聖地である。

 その聖地の入り口として、町内各所点在する救馬観音をはじめとするたくさんの「小栗の伝承遺跡」は、その病める小栗達を受け入れてきた証である。

 小栗伝説の出典は「鎌倉大草紙」や「小栗実記」。「新訂小栗伝」や「説教をぐり」など豊富である。それは、日本人の心のふるさととして、この物語が親しまれてきたからにほかならない。安井高次著「奥熊野秘話・小栗判官照天姫物語」では、小栗判官は、茨城県は常陸の国の小栗孫五郎満重の子、小栗小次助重で、相模の国に郡代・横山氏に毒殺されかかったのを「照手姫」なる遊女の機転によって助けられ、神奈川県は藤沢の時宗の本山・清浄光寺の上人に救われた史実をもとに、説経節や浄

 つぼ湯(小栗判官湯治場) 湯の峰
 つぼ湯(小栗判官湯治場) 湯の峰

瑠璃や歌舞伎芝居の芸能に組み立てられた。

 時宗は、中世において、多くのハンセン病の人々を救済するために熱心に活動していました。ハンセン病は、そのころ「餓鬼病み」と言われ、それらの病にかかった人々に時宗の称号、「阿弥」をつけて「餓鬼阿弥」と称した。猛毒に侵された小栗判官の姿とハンセン病にかかった人の姿の類似性から、時宗でハンセン病にかかった人を、餓鬼阿弥を説経節の「をぐり」とだぶらせ、小栗判官が熊野本宮湯峯の壺湯につかり蘇生する話しを熊野権現の霊験あらたかな話しと結びつけて全国に流布していった。

 小栗伝説は病める小栗判官が照手姫に曳かれて湯峯に苦難を乗り越えて向かう道行きの話であるが、小栗伝説について調べているときに大きな矛盾にぶつかった。それは、小栗が通ったと呼ばれている道、小栗の道が中辺路にも大辺路にも、その伝承地が各地にあるということであった。田辺市内をとってみても、山側と海側に二つの小栗の道の伝承地がある。その多くの伝承地の意味するところは、一人の固有名詞の小栗ではなく、多くの病める普通名詞の小栗(オグリ)達が熊野を目指した軌跡として伝承されているからである。

 多くの病めるオグリ達を受け入れてきた口熊野、上富田。絶望の淵に立たされた者を、「浄不浄、信不信、貴賎を問わず」あるがままに人々を受け入れてきたオグリ伝説の地、口熊野、上富田は、やさしい郷土なのである。