●龍松山城と山本氏  −秀吉の紀伊平定−@

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 南北朝の分立と山本氏

龍松城

龍松城

 南北朝時代から戦国時代にかけて、一瀬(市ノ瀬)の龍松山城(龍松城)を本拠に活動したのが山本氏である。山本氏がいつ頃から龍松山城に居を構えていたのかは、よく分からないが、鎌倉時代の終わりに、護良新王の討幕にかかわって歴史の舞台に登場し、戦国時代に羽柴秀吉が紀伊を平定するまで活動している。

 大塔宮舊跡地(切目)
  大塔宮舊跡地(切目)

 山本氏を軍記物(中世に頻発した戦争を題材にした文学作品)など、後世作成された資料では「判官」と記している。これはなぜであろうか。たとえば、延元二年(一三三七)三月日付の「小山文書」では、山本氏を「山本新左衛門尉」と記し、「花営三代記」応永三十二年(一四二五)二月二十二日条では、山本氏を「山本中務丞」と記している。この「じょう」や「じょう」が律令管制の「判官じょう」に相当するので、山本氏を「判官」と記したのであろう。

 山本氏は、護良親王の討幕の呼びかけに応じてその陣営に加わり、元弘三年(一三三三)六月、山本忠行が護良親王とともに上洛した。討幕に関する勲功がみとめられて山本氏は、健武元年(一三三四)二月一日、朝廷から越前五分の一頭職(具体的な地名は記されていないが)を与えられている。

 健武政府内部では、足利尊氏と護良親王は対立関係にあった。健武元年十月、護良親王は捕らえられて鎌倉に流され、翌二年七月に、中先代の乱に乗じた足利尊氏の弟直義に殺害された。そのためか、護良親王の与党であった山本氏は、南北朝の動乱に際して足利尊氏の北朝(室町幕府)方ではなく、後醍醐天皇の南朝方についた。

 健武三年(一三三六)十一月、足利尊氏は健武式目を制定して、事実上室町幕府を設立したことを宣言した。それに先立つ同年九月、紀伊守護に任命されたのが、足利氏一門の畠山国清である。ただし、畠山国清は紀北の戦闘で手が一杯であり、紀南に軍を派遣することはできなかった。そのような状況下の延元二年(一三三七)二月二十九日、山本忠行は同じ南朝方の小山実隆らとともに、北朝方の田辺惣領法印の城を攻撃している。

 九条家文書(宮内庁所陵部蔵)
 九条家文書(宮内庁所陵部蔵)

 延元四年(一三三九)八月、後醍醐天皇は吉野に崩じた。『太平記』では、紀伊の湯浅氏や山本氏を、後醍醐天皇の崩御にもかかわらず「一度モ変ゼヌ者共也」と、南朝への忠節を記している。ただし『太平記』は軍記物であり、記述をそのまま信じることは危険である。一例を示してみよう。脇屋義助(新田義貞の弟)が伊予に渡った際、熊野水軍がこれを支援した。山本氏も新宮別当湛誉や湯浅定仏とともに、武器や兵粮を整えたと『太平記』に記されている。ただし、『太平記』ではこの事を暦応三年(一三四〇)とするが、実際は暦応五年(一三四二)の事だったらしい。軍記物から事実を見つけ出すのは注意が必要である。だが、山本氏が紀南の南朝勢力の中核に位置づけられていたことは確かであろう。
 山本氏の本拠である一瀬は、中世には勧学院領(藤原氏氏長者の管掌する荘園)礫原荘の一部であった。暦応五年の勧学院領の状況を記した『九条家文書』には、礫原荘が石田荘(当町の岩田)などとともに、南朝に押領された荘園として記されている。これは山本氏が南朝方についたためである。このため足利尊氏は、礫原荘を山本氏から没収し、健武五年(一三三八)三月十一日、北朝方の熊野新宮に兵粮料所として預け置いている。ただ礫原荘から山本氏が追い出されず、熊野新宮の勢力が礫原荘に及ばなかったことは、守護畠山国清が分国支配のために発給した文書が牟婁郡で見られないことや、先に示した暦応五年の『九条家文書』からも明らかである。