●龍松山城と山本氏  −秀吉の紀伊平定−@

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奉公衆山本氏

 山本氏は南北朝の動乱の過程で、室町幕府によって、奉公衆に編成された。奉公衆とは室町幕府が将軍直属の軍隊として組織した武士で、一番衆から五番衆に編成された。奉公衆に編成されたのは、足利氏一門や譜代の被官、守護の庶家や有力国人など、顔ぶれは多彩であるが、彼らは各地で守護を牽制するとともに、御料所(幕府直轄領)の管理などを行い、幕府権力を支えていた。

 紀伊の奉公衆としては、山本氏のほか、日高郡小松原(現御坊市)の湯河氏、日高郡江川(現川辺町)の玉置氏、有田郡宮原(現有田市)の畠山氏が知られており、いずれも四番衆に所属した。畠山氏は紀伊守護畠山氏の庶家であるが、山本氏・湯河氏・玉置氏はいずれも国人である。彼ら奉公衆は、守護から政治的に干渉されない支配領域を有していたが、それは経済的に独立した支配領域を有していたからであった。

 湯河氏は比較的早い時期から幕府方であったが、玉置氏と山本氏は南朝との関係が深かった。玉置徳増は、嘉吉三年(一四四三)九月に発生した後南朝(南朝の遺臣)による禁闕の変(三種の神器の一つ、八坂瓊曲玉やさかにのまがたまを北山へ持ち去った事件)の際、南朝の遺臣を手引きした咎で、文安元年(一四四四)二月、管領畠山持国の被官遊佐氏の邸宅で殺害されている。このように、玉置氏は奉公衆に編成された後でも、後南朝との関係が続いていたのである。山本氏・玉置氏が奉公衆に編成されたのは、守護畠山氏の動きを牽制するほかに、後南朝に備える意味合いが含まれていたと見られている。

 山本氏が奉公衆に編成されたのがいつなのかは分かっていない。山本氏の室町幕府での活動が見えるのは、応永三十二年(一四二五)二月二十二日である。この日、重体となった将軍足利義量の病気平癒のため、七仏薬師に代参した幕臣の中に、「大御所(足利義持)奉公」として山本中務丞の名前が見える。足利義持は前将軍であり、事実上幕府の最高責任者であった。その人物に山本中務丞が奉公しているのであるから、山本氏はこれ以前から奉公衆に編成されていたと見てよい。

衣笠城付近(三栖方面より望む)

衣笠城付近(三栖方面より望む)

 ここで、山本氏の官途名乗りの変化を見てみよう。前述したように、応永三十二年には、「中務丞」であった。これが室町時代に成立した「番帳」類(奉公衆の編成を記した史料)では「中務少輔」になり、後述するように長禄四年(一四六〇)には「下総守」になっている。律令の管制は上から「かみ」「すけ」「じょう」なので、山本氏は官途だけで言えば、じょうすけかみと出世したことになる。

 さて、中世の社会では、蟻の熊野詣と言われたほど、熊野参詣が盛行であった。幕府関係の重要人物らが熊野参詣をした際、「まうけ(儲)」(接待のこと)を行うのも奉公衆としての務めであった。応永三十四年(一四二七)の九月から十月にかけて、足利義満の側室であった北野殿(西御所高橋殿)一行が熊野参詣を行った。この時山本氏は、往路では九月二十六日、復路では十月五日に、一瀬で儲を行っている。

 長禄四年九月、山本下総守が幕府に無断で紀州に下国する事件が発生した。山本下総守は歓楽にふけって勤めも行わず、子息が代わりに勤めを果たしている始末であった。幕府の内談(奉公人や将軍側近の会議)では、山本下総守の行為は許し難いが、子息が勤めを果たしているので、過怠銭(罰金のこと)を支払わせて、決着させようとした。しかし、将軍足利義政はこれを許さず、山本氏の所領である礫原荘を没収して、上地院胤祐に与える決断をくだした。

 しかし、後述するように、畠山氏の内紛もあって将軍の決定は実施されず、山本氏は礫原荘を手放すこともなければ、奉公衆から外されることも無かった。前述した玉置氏も徳増が後南朝に味方したとは言え、その跡を子息の小太郎が相続することが認められ、奉公衆の編成から外されることもなかった。室町幕府では一度奉公衆に編成されると、余程の事があっても、奉公衆から外されることは無かったのである。