●龍松山城と山本氏  −秀吉の紀伊平定−@

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畠山氏の内紛と山本氏

 紀伊の守護には、山名義理・大内義弘をへて、応永六年(一三九九)十二月、畠山基国が就任した。以後、戦国時代に至るまで、代々畠山氏が紀伊の守護であった。畠山氏は細川氏・斯波氏とともに室町幕府で管領を務める足利氏一門の有力守護で、紀伊のほか山城(一時的なもの)河内・越中・大和宇智郡の守護職を得ていた。持国の時に将軍足利義教の家督干渉にあってから、畠山氏の内紛が始まり、それが義就(持国の子)と弥三郎・政長(いずれも持国の甥)の間の、武力衝突に発展していった。

 享徳四年(一四五五)三月、畠山持国が没し、義就が家督を継承した。同年六月、これに反発した弥三郎派が紀伊・河内で蜂起した。義就はこれを鎮圧するため、幕府軍とともに河内に下った。その際、奉公衆の四番衆と五番衆が動員された。四番衆の山本氏もこれに加わり、同年七月から康正元年(一四五五)十二月にかけて、湯河氏や玉置氏とともに、河内・大和を転戦したと見られる。

 長禄四年(一四六〇)九月十六日、畠山義就は将軍足利義政から突然隠居を命じられた。反発した義就は、同二十日河内に下向し、畠山氏の家督はライバルの政長に移った。時を同じくした九月二十八日に、山本下総守が無断で紀州に下向している。確証はないが、この山本下総守の行動は、義就の動きと関係があるのかもしれない。

 坂本付城(下屋敷)龍松城の対岸
 坂本付城(下屋敷)龍松城の対岸

 しかし、山本下総守の子息は、幕府の義就追討の命令に従って出陣している。畠山義就は幕府軍を相手に寛正四年(一四六三)まで河内や紀伊で戦ったが、戦線を支えることができず、北山へ逃れた。この地で義就は、捲土重来を期するのであった。

 幕府内部で細川勝元と山名持豊(宗全)の争いが激しくなると、畠山義就は山名持豊と結び、復権を図った。文正元年(一四六六)十二月、上洛した畠山義就は、ほぼ同じ頃、紀伊へ養子の政国(能登守護家の子息)を派遣して、地盤固めを行った。山本氏も政国の軍に加わり、翌二年早々に守護所の置かれていた広城(現広川町)を攻略している。山本氏が畠山政国の軍列に加わったのは、当時将軍足利義政が畠山義就に好意的であったことが大きな要素であったと見られる。

 京都で応仁の乱が始まり、応仁元年(一四六七)六月五日に畠山政国は紀伊を離れたことと、同六月三日に将軍が牙旗を東軍(細川勝元・畠山政長方)に授けたことが加わって、紀伊では一転して、畠山政長方が優勢となった。山本氏の畠山義就方(西軍)としての活動もここまでであった。山本氏は奉公衆であり、将軍が東軍について義就追討の命令を各方面に発したこともあって、山本氏は義就方への加担を止めたようだ。

 山本氏が東軍についたことで、幕府は高家荘(現日高町)を御料所として山本氏に預け置いた。前述したように御料所を管理するのは、奉公衆としての務めである。高家荘は元来京都の大徳寺の荘園であり、御料所となったのは、応仁の乱の混乱によるものであったらしい。そのため、紀伊の状況が安定した文明四年(一四七二)十月、幕府は高家荘を大徳寺に還付している。

 応仁の乱は文明九年九月の畠山義就の河内下向で終わったが、かえって戦乱は各地に広がった。長享元年(一四八七)九月、将軍足利義尚が幕府に背いた六角高頼を討つため近江に出陣した際、大御所足利義政に仕える人数の中に山本氏の名が見える。また、明応二年(一四九三)二月、畠山政長が将軍足利義材とともに畠山基家(義就の子)を討とうとして出陣した際の人数にも、山本氏の名前がみえる。山本氏は、応仁の乱が終わった後も奉公衆として活動していたのである。