●龍松山城と山本氏  −秀吉の紀伊平定−@

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戦国の争乱と山本氏

 畠山政長と将軍足利義材が河内で畠山基家を追いつめていた明応二年(一四九三)四月二十三日、京都で細川政元が将軍候補に足利義澄を擁立し、足利義材と畠山政長を幕府から追放するクーデター(明応の政変)を決行した。このため、足利義材とともに河内に出陣していた奉公衆の軍も、河内から引き揚げた。当然、山本氏も引き揚げたと見られる。閏四月二十二日、畠山政長らの籠もる正覚寺城(現大阪市)に細川政元方の総攻撃が敢行され、畠山政長は自刃、足利義材は捕えられた。畠山政長の嫡子尚順はかろうじて虎口を脱し、紀伊で再挙を図ることとなった。

蛇喰城 −まん中の高い山−(生馬)

蛇喰城 −まん中の高い山−(生馬)

 明応の政変によって、それまで追討を受ける立場であった畠山基家は、一転して尚順を追討する立場となった。明応四年(一四九五)三月、畠山基家は紀伊に軍を進め、これに呼応して山本氏・愛洲氏ら紀南の基家与党が兵を挙げ田辺に乱入した。この混乱の中で闘鶏神社の社壇が破壊された。これに大して畠山尚順方は、奥郡小守護代野辺六郎右衛門が中心となって反攻作戦を実施し、同年六月九日、田辺に軍を進め、同十二日「愛洲構(現田辺市三栖の衣笠城であろう)」を攻略して、この方面の戦局は一段落した。

 明応六年(一四九七)七月、畠山基家の家臣団に内紛が発生した。これに乗じて尚順は、河内奪回の軍を発し、同年十月、その大半を制圧した。このような状況に対して将軍足利義澄は、湯河氏・玉置氏・山本氏に畠山尚順を攻撃するよう御内書を発した。 これは、この三氏がいずれも奉公衆であったからである。

山本氏は前述したように明応の政変後、畠山基家方であったが、湯河氏は畠山尚順方であり、足利義澄の御内書にも動じなかった。これは、足利義材が明応の政変後越中に逃れ、畠山尚順らと連携して京都奪回をめざしていたからである。

 明応の政変によって、将軍の権力が分裂し、それに伴って奉公衆も、足利義澄方と足利義材方に分裂した。したがって、紀伊の畠山尚順も謀反人ではなく、足利義材方守護と考えて良い。また、紀伊は明応の政変によって、はじめて畠山氏当主が在国し、直接支配することとなった。これは紀伊の政治史にとって画期的なことと言えよう。畿内で明応の政変がおこった明応二年は、北条早雲が伊豆へ討ち入った年でもあるので、普通、明応二年をもって戦国時代の始まりとする。紀伊の場合もこれを当てはめることが適切と思われるので、明応二年をもって戦国時代の始まりとする。

 畠山尚順が紀伊の守護であった間に、山本氏も愛洲氏とともに尚順方になった。しかし、紀南では永正十二年(一五一五)三月以前から熊野本宮と新宮が-戦うなど、不安定な情勢が続いていた。永正十七年(一五二〇)八月上旬、紀伊の支配強化をめざし強硬路線に走った畠山尚順は、有力被官や国人衆と不和になり、紀伊を追放された。紀伊の守護には尚順の摘子稙長が就任した。

 永正末年から天文初年にかけて、紀南では戦乱が続いていた。畠山稙長方の山本主膳の本拠地一瀬や、居城の龍勝山城(弘誓寺城)・蛇喰城は、たびたび敵の攻撃を受けている。敵の正体は明らかではないが、(『安宅一乱記』では安宅安次丸とする)、小山三郎五郎・安宅大炊介・有馬武州や玉置氏が山本氏の見方であった。

 畠山稙長は河内守護代木沢長政(義就流畠山氏の被官)との権力闘争に敗れ、天文三年(一五三四)以降、紀伊在国を余儀なくされた。この時期、山本氏は玉置氏とともに畠山氏の分国支配にかかわるようになる。畠山稙長が、賀茂小法師に対して浜中荘(現下津町)の守護不入を認めた際、山本式部丞忠善は玉置兵部大輔正直とともに、添状を発給している。これは、守護畠山氏といえども、有力国人である山本氏・玉置氏の協力が無ければ分国支配が覚束なくなっていたことを示している。また、浜中荘は牟婁郡ではなく海部郡にある荘園なので、山本氏の力が牟婁郡を越えて伸長していたことも分かる。

 天文十年(一五四一)十月、木沢長政が幕府に反乱を起こした。畠山稙長は、幕府からの働きかけもあって、よく十一年三月、河内回復の軍を発した。その際、山本氏も、玉置氏・湯河氏・愛洲氏や、根来寺衆などとともに、稙長の軍に加わった。