●龍松山城と山本氏  −秀吉の紀伊平定−@

      トップ> 上富田町文化財教室シリーズ


羽柴秀吉の紀伊平定
はや泊之城付近(田辺)

はや泊之城付近(田辺)

 天正十年(一五八二)六月、織田信長が本能寺の変で明智光秀に倒され、その光秀も羽柴秀吉に山崎の戦いで倒された。翌十一年四月、賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家を倒した秀吉は、信長の後継者として、天下統一事業を進めて行くこととなった。根来寺など紀州勢は、和泉の支配をめぐって秀吉との対立を深めて行き、秀吉と対立していた織田信雄・徳川家康と結んだ。

 かつて織田信長は、天正五年(一五七七)二月から三月にかけて、雑賀(現和歌山市)を攻撃したが、紀南に兵を進めることはなかった。それは当時信長が、上杉・武田・毛利などの有力戦国大名と戦っており、紀伊にさける兵力と時間が限られていたため、有力な戦国大名のいない紀南は後回しにしたからであろう。それに対して秀吉は、大阪の背後を守る位置にある紀伊そのものを、統一権力の版図に組み入れるために、紀南にまで軍を進めたのである。

 織田信長・徳川家康との和睦を成立させた秀吉は、天正十三年(一五八五)三月二十日、軍を紀伊に進めた。秀吉の大軍の前に紀州勢はひとたまりもなく蹴散らされ、同二十四日には秀吉軍の先蜂が雑賀に入った。感覚的には、この後で秀吉の軍勢が紀南に向かったと思ってしまう。しかし、秀吉は海に山が迫っている紀伊半島の地形を利用した水上機動戦を実行し、出陣とともに、水軍を中核とした部隊を紀南に派遣していた。この秀吉の作戦は的中し、三月二十五日にはすでに堅固な山城の鳥屋城(現金屋町)が落城していた。

 秀吉軍の進撃は速く、三月二十八日には杉若無心と仙石秀久が芳養の泊城(現田辺市)に入り、四月二十二日に太田城(現和歌山市)が落城した。紀南の戦いも、あらたかこの時点までには終了していたと見られる。ただし、山本氏らが秀吉軍に抵抗したこともあって、局地的な戦闘は七月まで続いたらしい。秀吉の紀州攻めによって龍勝山城は落城し、所領を没収された山本氏は牢人となった。山本氏は所領を没収され、支配権を失ったとは言っても、一瀬から離れ、、その勢力が無くなったわけではなかった。紀南の山間部にはこのような勢力が少なからず存在していたのである。

 秀吉は紀伊を弟の秀長に与えた。秀長は天正十三年閏八月、紀伊に検地を実施することを紀州の国中に告げている。検地は土地の生産高と作人を確定し、貢租の額と負担者を確定する作業である。ただし、大名はその石高分の年貢を秀吉政権に納入するのではなく、石高に見合った軍役を負担した。この制度は基本的に江戸幕府に継承されており、紀伊においても天正検地で、石高に見合った軍役を負担する体制が確立した。それゆえ、天正十三年の秀吉の紀伊平定をもって、紀伊の中世は終わったとされる。

 秀長が実際に検地に取りかかったのは翌十四年のこととなった。また、紀南の山間部に対して秀吉は、材木の徴発を命じてきた。検地も木材も中世社会では考えられないことであり、人々の間に不満が高まった。そのような状況を利用して、天正十四年山本氏ら熊野牢人衆が蜂起したのである。一揆は北山から日高郡山地(現龍神村)へと広がったため、八月二十八日には秀長自らが一揆鎮圧のために出陣した。一揆をあらかた鎮圧した秀長は、九月二十三日、大和郡山に帰還したが、一揆の最終的な決着は、天正十七年(一五八九)に北山が落とされるまで、ずれ込むこととなった。

 天正の熊野一揆に際し、山本主膳保忠は檜葉村(現本宮町)ら四村荘に対して、一揆に与すれば、切目半荘(現印南町)を与えることを約束している。このように熊野一揆で中心的な役割を果たした山本氏を、秀長は見過ごすことはできなかった。天正十四年十一月四日、山本保忠は捕らえられて有力被官とともに処刑され、その首は大安寺(現奈良市)東の道にさらされた。ここの山本氏は滅亡したのである。上富田の中世を考えてみる際、中世大いに勢力を振るった山本氏が統一権力に滅ぼされたことは、大きな意味があると言えるだろう。