●上富田町の民具となりわい 

      トップ> 上富田町文化財教室シリーズ


 3.富田川中流域の稲作・畑作と農具

 本節では、現地調査での聞書きと諸資料により、上富田町およびその周辺地域を含む富田川中流域の農業の典型的なあり方を描き、使用される民具を挙げてみたい。現在、聞書き調査によって明らかにすることが出来る農業のあり方は、せいぜい明治後期以降である。明治後期の当該地域の農業を概観する資料である一八九三年刊行の『和歌山県農具調査書』(註4)によると、西牟婁郡全体の田畑は六〇九二町五反であり、これは西牟婁郡の総面積八七六五一町五反の七%弱となっている。名草郡の田畑の面積が約四四%であるから、西牟婁郡は田畑の面積が相対的に少ないことが明らかであり、米の産額は五九七一八石、大麦は一八六石にとどまっている。

 統計的にも、西牟婁地域の農業は全体として小規模であるが、富田川中流域は西牟婁地域のなかでは比較的広い平野を有し、聞書きでも人々の生活基盤は田畑における農業にあるという印象が強い。当該地域では、両岸に山地がせまり平野が狭小なため、水田一枚ごとの規模が小さく、地形的な制約からその形態も多様であり、水田について複数の名称を使い分けている。例えば、平地に作る田は、オオダ(大田)・コダ(小田)などど面積の大きさに応じて呼び分けられる。ザルタ(笊田)とは、田の床土が粘土質に乏しくすぐに乾いてしまうものをいい、逆にヌマタ(沼田)とは、常に泥沼のように湿っていて水を抜いても乾きにくい水田を指した。

 郷土資料館の民具には、ヌマタで使用された田舟(写真1)があり、県内では珍しい例である。一方傾斜地では、谷あいの場所に山地から細々と流れる水を引いて作ったタニダ(谷田)と呼ばれる水田が多く、水温が低く面積当たりの収量は多くない。こうしたタニダでは、水路を作らず、田から田へと水を順番に流していくタゴシ(田越し)によって水を入れる場合が多く、景観としては小規模な棚田となる。以下、昭和初期を念頭に生産暦を復元してみたい。

 冬期の作業としては肥料作りがあるが、当該地域ではシダキと呼ばれる緑肥と、ホロタと呼ばれる厩肥の利用に特徴を見出せる。前者は、青草を土に鋤き込んで肥料とする緑肥で、草はジゲヤマ(地下山)・ノヤマ(野山)と呼ばれる共有林で刈った。良質な緑肥をとるため一度山焼きをして、コナラなどの雑木の新葉を利用する例もある。ジゲヤマは、その地区の住民であればだれでも自由に刈ることができる。また、河川敷でレンゲソウを栽培し、これを緑肥として刈り取ることもあり、これも含めた緑肥の共同利用が一般化していた。後者の、家畜小屋の糞尿と下草や藁を交ぜて発酵させた厩肥も、一般的に使われた肥料であった。これに使用する民具としては、草を刈る草刈鎌や大型の草薙ぎ鎌、刈った草を刻む押切、刈り取った草を運ぶ草刈籠、束ねた草を両端に刺して肩に担って運ぶササオコ(笹負子)、厩肥を運ぶホロタ籠(苗籠で代用する例が多い)などがある。こうした肥料を水田の上に鋤き込むには、オオアシなどと呼ばれる田下駄が使われた。

 水田の耕地を始めるのは、春の彼岸(旧暦)のひとつを目安とした。耕地は鍬・鋤のほか、牛耕の犂や馬鍬が使用されたが、当該地域に非常に特徴的なのは犂の持ち手が曲がっていることである。教育委員会所蔵の民具にもこうした形態の犂が四例見られ、一般的に使用されていたものと思われる。犂床部分は長床式犂よりは短い印象が強いので、明治後期の短床式犂への移行期または移行後に改良・製作され普及したものと考えられる(写真2・3・4)。しかし写真4の部分には「日の本號」「JAPAN Hinomotogo Plow Dainippon Kumamotoshi Touyosha」という凹文字が見え(写真5)、これは写真6と同型の短床式犂の部品を再利用したものであることがわかる。短床式犂の普及以後、この持ち手の湾曲した中床式犂を使用していたということであるので、その使用時期と使い分けなどについて追跡調査をする必要がある。

 また、犂床部をX字に交差させた犂柱で棟木に固定する形式の中床式犂が、紀ノ川下流域と徳島県に分布しているが(註5)、こうした形態を取り入れた犂も見られる(写真7)ので、今後その使用法や流通などについて調査する必要がある民具である。

 牛耕農具を牽引するのに使用する首木は、和歌山県の北部と南部で形態が大きく異なることが指摘されている(註6)。当該地域では、元々牛のうなじ部分を挟むように、木製の太い突起部分が付けられたものが特徴であるが、郷土資料館の資料には、こうしたものは無く、突起部分を細い木製の棒や鉄製の棒にして襤褸布を巻き付けたものが多数見られる(写真8)

 また、グル刈りと呼ばれる、田の畦畔の水漏れを防ぎ、雑草の繁茂を抑制するための畔塗り作業には、畦畔に泥を塗るための鍬形木製農具が使用される。聞書きでは、ノベなどと呼ばれているが、県内の他地域ではあまり見られない農具である。

 稲作用の種子選択について、前掲の『和歌山県農事調査書』の「農家カ随意ニ有uナル種苗ヲ購求若クハ交換シ得ヘキ便宜ナル諸設置」の項(註7)に、以下の記述が見られる。

西牟婁郡ニテ大和ノ大峯山ニ詣ルモノ多キカ其季節ハ大抵秋収ノ前后ニアルヲ以テ歸路必ス該地方ノ田ニ就キ最モ優美ナル稻穗數莖ヲ請ヒ得テ翌年之ヲ播下シ其種ヲ各家ニ傳フルヲ古ヨリノ習慣トナレリ

すなわち、奈良県大峯山への参詣が米の収穫時期にあたるため、参詣に出かけた人が、他地域のよい稲穂を分けてもらい、これを次年度の種籾とするという慣例があったという。同一品種の種子を使用し続けることによる品質低下と減収を避けるため、他地域と籾を交換し、安定した収穫を確保しようとした知恵である。大正期移行は、行政や農業団体から推薦された品種を使用する傾向が強くなっていき、こうした慣例も無くなっていったと思われる。

 播種をする苗代は、ノドコ(苗床)、あるいはケンチと呼ばれ、水田の一角に作る。郷土資料館の民具に見られる苗代籾播き具や、水面に浮く籾を沈める籾押え具は、近代農業の改良の課程で効率性を考えて考案されたものと思われる。苗代には育成の状態を見ながら、追肥として下肥を入れる場合もあった。

 播種から約1ヶ月後、苗を水田へ移植する。田植えは近所の人が総出で手伝い、こうした相互扶助をテマと呼んだ。田植え作業に他地域と大きな違いはない。田植えの準備では、若い男性が牛で代掻き、高齢者がエブリで均し、子供は肥料を撒く。田植えは女性が活躍し、田植え歌を歌いながら、苗を植えた。また苗を縦・横の列を揃えて植えるために使用する田植え縄も、農業近代化の課程で指導されて普及する農具であるが、平地にある広い水田では移植する苗の間隔を広く設定した縄を、谷田や山際の小さな水田では間隔の狭い縄を使い分けていた。

 田植え後の追肥としては、緑肥のほか、煮た大豆を絞りつぶしたマメカス(豆糟)が多用された。マメカスは丸く固められ、別名マメダマと呼び、使用するときはマメカス削り具で薄く削った(写真9)。一方、屎尿の利用については、前掲の『和歌山県農事調査書』の「重ナル肥料ノ種類及購求ノ便否」の項(註8)

西牟婁郡田邊近傍各村ノ田邊市街ノ屎尿ヲ買取ルハ大抵一ヵ年ノ代金ヲ前納スルモノアリト雖十二八九ハ米麦ヲ以テ之二代ルヲ常トス亦貧寠ノモノハ蒔ヲ以テ屎尿ト交換スト云フ

とある。すなわち、田辺近郊農村では、屎尿を買い取る代金一年分を前納する者があるが、そのほとんどは米や麦、薪で支払っていたという。

 夏の除草作業は、除草剤が導入される昭和二〇年代以前、除草機で水田の雑草とりを三回実施した。炎天下の単純作業であるため、負担を紛らすため田の草取り歌を歌って進めた。稲の害虫であるウンカ対策には、水田に油筒で廃油を垂らし、虫を水面に落として窒息させた。鳥害に対しては、縄に触れると音が鳴る鳴子で追い払う程度しか対処法はなかった。郷土資料館の民具にも、田打車や油筒、鳴子がある。

 稲の移植作業を相互扶助で行うのに対し、収穫は家族だけで済ませるのが一般的であった。稲刈り鎌で刈った稲はナル・サガリとよぶ稲木に架けて乾燥させる。稲穂の脱粒は鉄歯の千歯扱きを用い、土摺臼で脱脬、唐箕で籾殻やゴミと玄米を分別した。

 精米は各戸の唐臼で行い、イタミ(板箕)で白米と糠をより分けた(写真10・11)。このイタミは西牟婁地域から奈良県十津川村周辺まで分布する地域的に特色ある民具である。イタミの古いものにはスギ板で自作したものが見られる。自作のイタミは、曲げ部分に使うスギ板を、イロリの熱がかかる所に吊って、両側に錘となるものを提げ、熱と錘の重力とで徐々に曲げて作ったという。そのため自作のイタミの曲げ部分は黒く煤けている。こうした自作のイタミは現在でも使用されているが、現在では、イタミを自作する人はいないので、より多くの資料を収集しておく必要があろう。一方こうした自作のイタミに対して、職人の手による製品も見られる。(写真12)そうしたものは、曲げ部分を湯曲げするため、緩やかな弧となっているので一見して判別できる。

 籾の脱粒は、古くは千歯扱きが使用されたが、大正時代には回転式足踏脱穀機に急速に転換していった。回転式足踏脱穀機に関して、『和歌山懸農業概要』の「農業の改良」の項(註9)には、大正一〇年の回転式足踏脱穀機の比較試験で、「西牟婁郡一之瀬村 稗田農具製作所」製作の「稗松式」と呼ばれるものの性能が試験されている。これは「供試人力用回轉脱穀機二〇種中實用に適するもの四種を撰定し奬勵農具として取扱ふ」(註10)として県が選んだものであり、「稗松式」回転式足踏脱穀機は有用なものとして当該地域に普及していった可能性が高い。

 比較的広い水田では、米を収穫後にムギやイモなどを栽培する二毛作が行なわれた。作物は裸麦・大麦・小麦で裸麦は精白して麦飯にするほか、石臼でひいて調理、大麦は牛馬の餌、小麦は味噌・醤油に加工するなど利用された。

 二毛作は、稲作が終了後わずか一〜二週間で、水田を畑に作り変え、麦の播種をする必要がある。耕作前には、害虫駆除のため、稲を刈った後の株を抜く「株抜き」をした。田に残る稲株のなかには螟虫の卵が残っており、放っておくと夏に虫害を起こすため、これを抜き取り集めて焼くのである。これに使うカブヌキ(株抜き)やカブキリ(株切)は、複数の形式があり、地元の鍛冶屋と農家がそれぞれに考案したものと思われる。しかしこうした虫害への知識は、行政的な指導に基づくもので、農業技術の改良が積極的に進められる明治末期以降に普及したものと思われる。

   
   
   
   
   
   
   

 水田から畑への切り替えには、鍬や牛耕の砕土機が使用されるが、紀ノ川下流域で独自に発展したヤツゴと呼ばれる歯減らし馬鍬は、郷土資料館の農具には見られず、周辺地域での聞書きからも使用されていなかったようである。土の塊を砕き、鍬で畝を立て、そこに麦の種子を播き、鋤簾で土を被せ、稲藁で覆った。

 犂で耕起して畝を立て、播種した後約1ヶ月で、株張りを良くするために麦踏をする。一般的には足で踏むが、郷土資料館の民具には石臼形に加工した砂岩を転がして使用する石製麦踏車も複数見られ、農業近代化の課程でこうした道具の導入が試みられたようである。

 畝間の雑草を削り取って除草する中耕作業には、草削りを使用するほか、教育委員会所蔵の民具には、紀ノ川下流域で特徴的に見られるミカヅキ・ハラカキなどと呼ばれる牛耕畝間中耕具と類似した資料が見られる。これは、牛に牽引させて畝間の土を削り取ってしまうものであるが、本資料には砕土用の鉄製部品が付属しており、紀ノ川下流域には見られない形式である。

 脱穀調整作業の脱粒は、西牟婁地域に独特の形式の麦用竹製千歯扱きが使用された(写真13)。こうした座位で自らの体重によって千歯扱きを支える形式の写真は、県内の他地域には見られず、より多くの類例収集する必要がある。麦の脱脬は筵の上で唐棹・麦摺り機を使った。また、ノンキリ(禾切りか)と呼ばれる脱穀棒は、主に豆の脱穀に使用された民具であるが、日高地域には見られず、西牟婁地域に特徴ある道具と考えられる(写真14)

 本節では、富田川中流域における稲作・畑作の具体的な技術と農具について概観してきた。近代以降の当該地域の農具は、基本的な編成において他地域と大差ない。しかし、緑肥と厩肥の活用や、特徴的な形状の犂や紀伊半島北部と南部で地域差が見られる首木、紀伊半島南部に分布するイタミやノンキリ、独特な形態の犂や麦用竹製千歯扱きなどの民具は、より詳細な調査が必要であり、データ集積のために今後も更なる収集が急務である。一方、西牟婁地域では、粥占・野遊び・虫送り・イノコなどの農耕儀礼が顕著に見られ、こうした儀礼に使用される道具や作りものに対する調査も充実させていく必要があろう。

4 大橋博 編 『明治中期産業運動資料〈第1集〉農具調査 第9巻ノ1 和歌山県・三重県』 日本経済評論社 1970

  66〜69頁を参照

5 河野通明氏(神奈川大学教授)よりご教示頂き、筆者も関心を持って調査を進めている。

6 河野通明著 『日本農耕具史の基礎的研究』和泉書院 1994参照

7 前掲註4 23頁

8 前掲註4 24〜25頁

9 和歌山懸内務部編 『和歌山懸農業概要』 和歌山懸 1931 88〜94頁

10 前掲註9 89頁