●上富田町の民具となりわい 

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 4.富田川中流域の雑木林利用と民具

 本節では、富田川中流域における集落背後の雑木林利用について概観したい。西牟婁地域では比較的広い平野を持つ当該地域でも、水田経営のみで生計が保てる農家は少なかった。その反面、平地の広い紀ノ川流域とは違い、ほとんど全ての集落が、日常的な利用によって維持される雑木林を有しており、それへの依存度も高いと思われる。

 雑木林利用として、聞書きデータを、
    @薪・柴の燃料採取
    A山菜や木の実などの保存食採取と現金収集となる採集資源
    B草や小枝の肥料としての利用
    C集落の守り神や雨乞いの神の祭祀
    D子供の遊び場、に整理してみたい。

 @に挙げた薪・柴の燃料採取については、ガスの普及以前、一年分の炊事・風呂焚き用の薪や柴と、着火材としてのスギ葉を、冬期に採って蓄えるのが一般的であった。薪・柴にはアラカシ・コナラ(地方名ホウソ)・クヌギ(地方名ドングリ)・スダジイ・ヤマモモ他が使用されたが、カシやコナラなどのカタギ(堅木)は、薪に最も適していた。ジゲヤマ・ノヤマと呼ぶ共有林はもちろん、個人所有の山林でも比較的自由にとることができたが、森林の持続的利用のための一定の規則はあった。それは、マツ・スギ・ヒノキ・クスノキ・カシ・ケヤキは伐採禁止、炭焼きの材料となるナラ・ウバメガシは伐採禁止、片手で握ることができない太さの木は伐採禁止、マツタケの季節は、マツタケを入札する山には進入禁止、柴は刈って束ねた時から刈った人の所有物、などであり、森林利用のいわば「常識」であったという。

 薪・柴は自家利用のみならず、上富田町岡では田辺市街へ薪を売りに行き、農家の冬期の収入源とした。薪・柴の採取には、天秤棒の両端に束ねた柴を突き刺して使用するササオコ(笹負子)や腰鉈が使用された。また、古くは照明用に肥松の根を採取したという。

 次に、Aに挙げた山菜や木の実などの保存食採取と現金収入となる採集資源も、集落背後の雑木林の重要な利用であった。木の実の採集はトチ・クリ・シイなどが挙げられる。クリは花が養蜂の蜜に、樹皮の煮汁は皮なめしに、幹は樋の材にとその利用の幅は広い。採集する山菜としては、ワラビ・ゼンマイ・フキ・イタドリ・ウドなどがあり、根を食するものとしてはクズ・ヒガンバナ・ワラビ・ヤマノイモがある。

 西牟婁地域の山間部では「雑木林には薬の植物七七種ある」という伝承が大塔村の日置川流域の集落で聞かれるが、センブリ・キハダ(胃腸薬)・ヨモギ・アザミ(止血薬)・カンゾウ(心臓病)・マタタビ(神経痛)・タラ(破傷風予防)などは代表的なものであった。富田川流域でも、同様の植物が広く利用されたと考えられる。

 一方、現金収入となる採集資源には、ハゼの実(ろうそくの素材)、ガンピ(地方名ガンビ)の樹皮(和紙の素材)、クスノキ(樟脳の素材)などが挙げられる。クスノキは艶のある材のため、家具や器具、建築、船舶の用材ともなった。

 田辺市鮎川での聞書きでは、西牟婁地域には「山の豊年、里不作」という言葉があるという。雑木林の恵みと水田の恵みのどちらも大切だが、里山のものが豊富な年は米が不作、雑木林が不作なら米は豊作になるという意味だという。水稲耕作のみに依拠しないこの地域の生活のあり方を端的に言い表していよう。

 Bに挙げた、草や小枝の肥料としての利用を目的とした山焼きは、前節で見たとおりである。C集落の守り神や雨乞いの神の祭祀については、雨乞いの神仏などが祀られ、山の神祭祀の場でもあった。また、かつて農村近くの雑木林は、貴重な資源を与えてくれると同時にDに挙げた子供の遊び場でもあり、子供たちは常に自然と触れ合っていたのである。

 このように、富田川中流域の平地では雑木林利用が日常的に行われていた。そのことは、川沿いに水田が展開し、山際に民家が立地し、背後に雑木林が広がるというこの地域の景観にも如実に現れている。ただし、こうした雑木林が保持される前提として、白炭・黒炭の炭焼きが西牟婁地域に広く展開していたことも大きく寄与していたことを付け加えておきたい。