●上富田町の地名  −無形文化財としての地名

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 メッセージ伝達者としての地名

 町内の小字を全部取り上げるわけにはいかないので、湿地と高まりの地名に限定して地名の発するメッセージを考察してみよう。

 大泓 岩崎にあるこの地名は、大きな湿地帯(フケ)があったことを示している。富田川は荒れ川で、洪水の度に流路を変えていたようだ。地形を細かく見ると、川跡らしい細長い低地がいくつも交わっている。朝来と生馬の村境を辿っていくと、この大泓に富田川本流がぶつかるように流れていたこともあったのではないか。近くに「水のたまるところ」の転訛であるトロ、「水路を伴う低地」の意味を持つツルによく似た地名の「津呂」があることからも想像できる。この地が川の変換点になり、湿地ができ、そこを川舟の船溜りにするとか、流下してくる木材のアバとして利用したのではないかと考えられる。

 根皆田「ネ」は土地の高まりのことをいうので、富田川の氾濫原にある曽根や中根はわずかな高まりである自然堤防の発達した地域ということになる。『市ノ瀬村古来地名記』(中松家文書『松のみどり』所収)に、市ノ瀬の字後代は「昔ハ川ナリ。不動の尾山ヲ切り取リ、川替へ後ヨリ寄砂トナリテ平地出来シ……」とあり、それに続く下流地域に「根皆田」がある。そこで川替えによって富田川本流の土砂が根皆田川口を塞ぐようになり、その土砂の高まりが「ネ」であり、その土砂で「垣内」のように囲まれてしまった低地、という意味ではないかと考えている。その論拠は、同書にある慶安四年(1651)から、根皆田の対岸の「大芝」にすでに廃城となっていた山本城の石垣をはずし、堤防を築いたからである。「大芝」のある富田川左岸一帯は、河岸段丘の発達もあって、市ノ瀬村の中心集落であったので、この地を災害から守ろうとして堅牢な築堤をした。ということは根皆田は、遊水池としての役割を担わされていたということで湿地として残されていたことになる。

 他に朝来の「梅田」は小字ではないが、「埋田」と考えられ、大きな沼地であった「大沼」に隣接していること。また大阪の梅田のような一般的に沼や川の淵を土砂で埋めて陸地化した低湿地と考えられるからである。「里田」という字名も「梅田」に隣接するが、真砂光男氏(上富田文化財十九)も指摘するように、「埋める」の土偏が誤記か転用して「里」になったのかもしれない。そうだとすれば湿地に関係した地名ということになる。さらに岩崎の「野田」、「田尻」、岡の「苔田」も湿地を意味する地名といえよう。

褶曲地形と水田の発達する市ノ瀬根皆田地区

堤防と同じ高さになった富田川の川原

褶曲地形と水田の発達する市ノ瀬根皆田地区

堤防と同じ高さになった富田川の川原 

市ノ瀬地区(昭和30年ころ)

 富田川の氾濫原でわずかな高まりは自然堤防であると述べたが、そこには「ネ」のつく地名や砂とか芝とかの地名が多い。生馬の曽根や砂田、朝来の「沖ノ芝」、市ノ瀬の「大芝」が好例である。自然堤防は氾濫原より、土地が高くやや乾燥しているので快適な生活が営みやすく、飲料水は手に入れやすい。また水害にも遭いにくく、水田などの耕地が近くにある等比較的条件の良いところであるので、多くの人たちがここに小規模ながら集い、集落化していくのである。

 富田川の氾濫原を領域にする小字に「坊」のつく地名が二つある。岩田の「大坊」であり、岩崎の「坊垣内」である。岩崎の「坊垣内」は、隣接する字に寺谷があり、そこには波切不動尊の堂字があるので、寺に関する地名の可能性が高い。ところが、岩田の大坊にはそれらしきものが見当たらないし、伝承も調査した段階ではとくに見つかっていない。そこで地名辞典をひもとくと、「坊」は、「ぼぼける」からきた崩壊地名ではないかという。そういえば平成十八年の集中豪雨で大きく崩れ落ちたところも字「大坊」である。