●富田川に架かる上富田町の橋  

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交通路としての川の特性
 かつての櫟原庄付近の風景(右側竜松山)
 かつての櫟原庄付近の風景(右側竜松山)

 川とは人間にとっても、すべての生物にとっても、命と富をもたらしてくれる恵みそのものの存在である。また川は重要な交通路ともなる。川を横断する渡しや川を遡る舟運、上流から筏や丸太を流したり、河川依存度は今以上に高いものであった。中辺路の真砂に江戸時代御仕入役所が置かれたのも、延宝四年(一六七六)以降つぎつぎ出される富田川舟路計画も、舟運による物資の流通を目的にしたものであった。

 このように多大の恩恵をもたらす河川ではあるが、人間の行動を妨げ障壁となる存在であるのも河川の特徴である。時には大きな凶器にもなり、人命や富を奪い去ることもある。一方平時にも川の流れが川向こうとの障害物として横たわり、遮るのでスムーズに対岸と往来や交流を持つことが出来ない。これが人々の交流や物資の輸送の障害となり、両者の関係を疎遠にしてしまうのである。この障害性を利用したのが国境であり、県境、村境である。たとえば、アジアでは中国と北朝鮮の国境となったアムノック川(鴨緑江)、さらにメコン川、アフリカのセネガル川、オレンジ川、ヨーロッパのライン川、ダニューブ川や北アメリカのリオグランデ川などが国境河川として有名であり、県境河川には木曽川、利根川、多摩川や熊野川などがある。また、上富田町と白浜町の町境や合併前の市ノ瀬・岩田、市ノ瀬・鮎川の村境も川である。

 どのような大きな障壁であっても乗り越えて交通しなければいけない事情が生じる場合がある。運送に携わっている人や、耕作のために川向こうに行かなければならない人など、仕事や親類知人への訪問であったり、社寺参詣や観光旅行の場合もある。そのとき障害を膝まで浸かりながら歩行によって克服するか、飛び石伝いに乗り越えるか、あるいは舟、橋を使って対岸に至るかである。今でこそ対岸に行くのに、まったくの障害がなく、気構えは入らないが、施設の十分整っていなかったころは、途中で命を落としたり、死を覚悟して渡ったり、渡ることが出来る条件まで待ち続けることもあった。まさしく川向こうは彼岸であった。

 とくに、大河は川幅が広いために架橋したくてもその技術の未熟さやたとえ架橋できる技術や材料があっても、洪水ですぐに流出する恐れもあり、その復旧に多額な労力と費用を要すこともあって多くは放置されたままになっていた。また大井川や天竜川のように、幕府の政策によって架橋をしなかった例もある。

 人足の肩や輿による渡河や渡船での渡河は、時間的制約をうけ、不便であり、安全性に問題があって架橋を要望されることもあった。承和二年(八三五)には、東海道や東山道の主要河川に浮き橋、渡船の設置を通告されているが、このような例は珍しかった。時代が下っても河口部や川幅の広い大中河川の渡河のほとんどは渡渉や渡船に頼らざるをえなかった。

 映画『戦場に架ける橋』でも明らかのように、戦争を遂行する目的で橋を造ったり、また修理することもあった。近代以前の富田川に架かる橋の記録は未見であるので戦争のために架橋し改修したかどうかはまったくわからないが、京都宇治川大橋について面白い記録が伊藤正敏著『社寺勢力の中世』(ちくま新書 〇八年刊)によって紹介されている。この本によれば、承安三年(一一七三)の奈良興福寺から比叡山延暦寺に出された果たし状(宣戦布告)の下書きが残されており、その中に「宇治の平等院に命じて、宇治川の橋を修理して渡りやすくし、道路も平らに均して歩きやすくし」て、宣戦を布告した興福寺側から対戦相手の延暦寺に出陣を促しているという。敵方が攻めやすくなるように橋を改修したというのである。奇妙であるし、ゆったりとした昔の世相を垣間見ることができ、戦争という悲惨な出来事の中にも優しさとロマンの感じられる果たし状であったようだ。このように、大化二年(六四六)に架橋され、橋の安全を祈念し瀬織津媛(せおりつひめ)を橋姫として祀っていた宇治川橋も、中世においては重要な戦略拠点として認識されていたのである。

 近世においても橋は重要な役割を持っていた。築城の際巧みに縄張りに取り入れられた。城域にわざわざ水掘空掘を造り、それに架橋したり跳ね橋にして、落とせば敵の急襲から城を守ることができるという防御を目的に構築された。