●富田川に架かる上富田町の橋  

      トップ> 上富田町文化財教室シリーズ


古記録が伝える富田川渡渉

 川を通行するのに、流れを横断する方法と流れに沿って川丈を縦断する方法とがある。荒れ川で有名な富田川(岩田川)が中央でよく知られるようになったのは、熊野詣での人たちの役割が大きい。川丈(川長)を遡る方法で滝尻に向かっていったからである。文献上の初見は弘仁十二年(八二一)の天台宗の智証大師が石田(岩田)川の下稲羽里を通ったという(「群書類従」『上富田町史 史料編上』所収)記録である。ところで、岩田川はどこからどこまでをさして言うのだろうか?近世の三栖新家文書のなかに「朝来組万覚書」(『上富田町史 史料編上』)があり、「岩田川(川は誤記? 筆者注)より滝尻迄を岩田川と唱申伝候故・・」とあることから、いつ頃からいつ頃まで用いられたかはわからないものの岩田〜滝尻間を岩田川と呼んでいたことがわかる。

 いずれにせよ岩田川は、熊野街道のルート中川丈を歩行で遡る唯一の河川であったことが要因だろうか、「聖なる川」として崇められ、垢離場も設けられた。『平家物語』にも「この河のながれを一度もわたれるものは悪業煩悩無始の罪障きゆなる物を、と、たのもしうぞおぼしける」とあり、『源平盛衰記』にも「一度此河を渡る者、無始の罪障悉く滅すなれば今は愛執煩悩の垢もすすぎぬらん」とあるように、富田川の河水に何度も触れ、裾を濡らして渡ることが垢離になり、今までの罪を洗い流すことが出来るとされた。

 天仁二年(一一〇九)の「中右記」には稲葉根−滝尻間を「渡石田川十九度」と富田川を十九回も渡ったと書かれており、滝尻までの間に賀茂の里(下鮎川)の名もあって、下鮎川より上流でも河川歩行が行われていたのは間違いないが、それでもこの距離で十九度も危険な川を渡るとはあまりにも多すぎる。そこで筆者は、原本ではまだ確認はしていないが、もともと「十九度」と日記に書かれていたものを清記や転写の際「十九」と書き直したのではないか、「いくど」の意味で、十九度と書いていたのではないかと推測したことがあるが、十九はたぶん渡河の回数が多いという意味で書かれたのであろう。

 藤原定家は建仁元年(一二〇一)「熊野道之間愚記」で、稲葉根王子をたって岩田川を渡り、市ノ瀬王子に詣り、また川を渡って鮎川王子に参っている。鮎川王子まで二度渡河したことになる。

 承元四年(一二一〇)の「修明門院熊野御幸記」によれば、大雨の中稲葉根王子に奉幣参拝して市ノ瀬王子に渡り、輿に乗って一の瀬を渡り、水苔を避けながら二の瀬を渡り、鮎川王子に着いた。その後増水にもかかわらず、旅を強行したので第六瀬との間で激流にのまれ九人もの犠牲者を出してしまった。予想外の惨事であったので真砂で宿をとって休み、滝尻まで行ってはみたものの洪水でしばらくは渡れなかったという。六瀬まであったことは渡河点は六箇所あったということだろうか。

 応永三十四年(一四二七)の実意の「熊野詣日記」には、市ノ瀬の岩田川の上に垢離場を設け、「昔ハ御幸などに三の瀬にてめされるやらん」とあり、垢離は三の瀬で行ったという。「大かたハ一の瀬より二の瀬、三の瀬ちきに御わたりあるへきなり、されともいまは川の瀬も、昔にかハりてわたる事なけれハ其儀なし」と川の流れは自在に変わり、流れの部分は狭かったものの、いくつもの瀬を渡らなければならなかったという。室町時代になっても川には橋が架けられていなかった。

 このように富田川が瀬渡りを可能にしたのは水深が浅かったことを意味している。ということは「一ノ瀬村古来地名記」((『松のみどり』所収)明治四十五年?中松伝吾記)からも裏付けられる。

引用すれば、

当村は実地高きを以て川に木の葉つもり一面の川瀬と成り、是を以て当地名を一と瀬の里と号す・・・

当一の瀬村は昔より地面高く、故に干水の節は川流れに於て川原と成事早し

鮎川村地面も一の瀬の川敷高きを持て字不動の尾を限り、川に木の葉関き盛り以内登り込みの鮎魚、
秋に至り干水成る故下り出来がたく、故に所々に鮎魚多く集まり有るを 大臣おん目論み当地の名を鮎川の里と号すとなり。

 とある。ところで、富田川は歩行だけではなく川舟も使われたようである。『源平盛衰記』にも、「岩田川誓の船にさをさして沈む我身も浮びぬる哉」という歌があるように、規模や距離、頻度についてもまったくわからないが、渡船もあったことは明らかである。

 古代中世の富田川の姿は「参詣日記」等で比較的よくわかるが、近世の富田川の様子は、当時の『道中記』等からはまったくうかがい知ることは出来ない。それは、古代からの熊野詣のルートが変更され、三栖から潮見峠越えに代わり、富田川丈を縦断しなくなったからである。

 交通路から離れると岩田川の位置も知識もあいまいになってくるのだろうか、幕末のころの成立と思われる『熊中奇観』(別名「紀南巡覧図」)には、欄干のない板橋が架かった川が描かれ、岩田川との地名表示はあるものの、描かれている位置は、下三栖村の善光寺(現報恩寺)と上万呂の間である。本来三栖川(現会津川)の表記すべき川を、たぶん絵師が書き間違えたのだろう。それほど岩田川の位置があいまいにしか認識されていなかったのである。