王子跡とその周辺 

      トップ> 上富田町文化財教室シリーズ


 稲葉根王子跡

稲葉根王子跡

稲葉根王子跡

 岩田王子谷の国道311号の側にあります。この王子は『中右記』天仁2年(1109)10月22日条に「伊奈波祢王子社」と見え、建仁元年(1201)の『熊野御幸記』には、

 稲葉根王子、此王子は五躰王子に準じて毎事過差と云々、御幸の儀は五躰王子に同じと云々、

と記され、この王子は五躰(体)王子に準じて事ごとに華かであり、御幸の儀式などは五体王子と同様に執り行われたとみられます。

 さらに、承元4年(1210)の『修明門院熊野御幸記』には、

 御稲葉根王子に参る、御奉幣已下常の如し、八女八人、唱人二人、各白布一反之を給ふ、懺法僧甘口、各供米一斗・布一反之を給ふ、五躰王子の間、御先達已下馴子舞、

とあり、この時期には五体王子とされています。五体王子とは三山で祀られていた若宮・禅師宮・聖宮・児宮・子守宮の五所王子を祀った王子社のことであろうといわれ、これに従えば後のことですが、祭神はアマテラスオオミカミ・アメノオシホミミノミコト・ニニギノミコト・ヒコホホデミノミコト・ウガヤフキアエズノミコトの五神とされます。また、こうした五体王子には、ふつう巫女8名、楽人2名の職員が駐在していたとみられます。

 ところで、九十九王子とよばれる王子社には、稲荷社を末社としたところが比較的多くみられます。この稲葉根王子の地を稲荷神の発祥とする説が室町時代初期の『二十二社註式』にあり、

或記に曰く、人皇五十二代嵯峨天皇弘仁二十二年夏、智証大師熊野に参り顕密法を以て、又三所の威光を飾り奉り、還向之時、紀伊国石田川の下稲羽の里を過ぐる之間、一人の老翁多く稲を刈り之を荷ふ、二人の女亦稲を敷き、行方知れず失せ訖んぬ、某の夜大師夢む、一人の老翁は上宮なり、二人の女は下・中社なりと云々、

と、伏見稲荷の上社、中社、下社の霊神は、はじめてこの王子に出現したと説いているのであります。このことは、この王子社のもとのすがたは、あるいは田の神を祭った萱堂ではなかったか、と考えられます。後に熊野信仰が盛んになるにつれて、熊野の本社から五所王子を勧請し、それらを首座として王子社のかたちを整えたとみられます。この王子の本地が稲荷神とされていたことは、正中3年(1326)の『熊野縁起』(仁和寺蔵)に「稲羽金剛童子、稲荷形也」とあり、また、応永年間(1394〜1428)の『寺門伝記補録』にも「稲葉根稲荷大明神」と記されているので、あるいは御神体として稲荷像が祀られていたのかも知れません。

 京都の聖護院はじめ高山寺など、各地に残っている熊野本地曼荼羅の下方の部分に、五体王子などを配し、熊野九十九王子をあらわしたものがありますが、それには稲葉根王子を稲束を荷った翁の姿で描いています。このように稲葉根王子と稲荷神とのかかわりは、きわめて顕著であり、その解明は今後の研究課題といえましょう。

 

『宴曲抄』には、

   見すくし難き稲葉峯、穂並もゆらとうちなびく、

              田頰(つら)を過て是や此、岩田の河の一の瀬

と、この稲葉の里の豊かな稔りがうたわれています。

 江戸時代は岩田村の産土神として尊崇され、大正4年に現在の岩田神社に合祀されましたが、岩田神社の本殿は、もとの稲葉根王子社の本殿で、そのときに移されたものです。

 昭和31年、もとの社地に分霊を遷座し、稲葉根王子宮として奉祀しています。

 

   ○指定種別    国指定文化財 史跡

   ○所在地      上富田町岩田王子谷3108

   ○指定年月日  平成27年10月7日

 稲葉根王子跡旧景(大正5年以前)
稲葉根王子跡旧景(大正5年以前)