中世末上富田の城館跡 

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 野田のだ城跡 
 
 野田城跡
 野田城跡

 野田城跡は、町内の南端部岩崎の野田にある郵便橋北詰の小丘陵上にある。

 天正13年(1585)秀吉の紀南征討の一隊である杉若越後守の率いる上方勢は、朝来大内谷に陣を張り、最前線の砦として塗屋城と共に南からの攻防のために、富田川の渡河地、野田に急遽築城したようである。そのために古記録類に「城主知不申候」とあるのもそのためであろう、一説に応永年間(1394〜1427)、地侍の野田冶部太夫氏尚(氏尚の曽孫の貞左太殿の時という説もある)の築城という伝承もあるが、史料的に不足する。

 城郭跡の規模は、東西十一間(約21メートル)南北二十一間(約38メートル)で、中央部に東西五間(約9メートル)南北十一間半(約23メートル)のやゝ高くなっている、また南端に土塁跡や、その一部に木戸口のような所は、砲門(大筒)跡と推定される。この南麓に「門下」の地名が伝えられる。現在の登り口は北側である。

 註『朝来村郷土誌』(大正12年刊)記載の『野田城趾』に「応永年間築城」の伝承を記している。この文章は大正10年の『天然記念物史跡名勝調査台帳』(以下『調査台帳』と略す)の記載と全く同文であり、この『調査台帳』を引用したものといえる。この調査は県下で初めて天然記念物史跡名勝に該当する物件を各市町村から提出させた該当物件である。審査により大正14年指定物件は県告示されたが『野田城址』は指定から外された。