上富田の石塔  (その2) 

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 宝篋印塔

1.正福寺の宝篋印塔   岩崎

 岩崎の正福寺境内にある。凝灰岩製。高さ36センチの二重基壇をつくり、その上に反花座と請花座をおき、その上に総高185センチの宝篋印塔をおいている。搭身は請花座の上に高さ25センチの方形で月輪を陰刻し、金剛四仏の梵字を薬研彫りしている。基礎は高さ20センチ、幅45センチで、正面のみ輪郭をまき隅切りをしている。なかに四方仏の一つを薄肉彫りしている。他の側面には

(左側面)

經不云乎若有善

男善女爲夭上道

造搭安置神呪所

得功徳説不可盡

若人暫見是搭能

除一切災難當知

以此寶篋印陀羅

(裏面)

尼威神力故也鳥

虖法界群生倶霑

利楽何以乎侈

銘曰

這大寶搭撑地柱天

萬佛秘蔵三世福田

玲瓏物表焜燿目前 

(右側面)

 

 

 

 

最尊最大不崩不騫

緇白慶讃家國安全

業海頓涸信根益堅

用聲敬共結勝縁

豈寶暦 癸 未七月

東福 守瑛拜

さらに反花座の側面には

(正面)

    羽陽

願主

    臨峯

(正福寺の宝篋印塔)

(正福寺の宝篋印塔)

と陰刻されている。この石塔の銘文は、京都五山の一つである東福寺の262代の住持(管長)玉嶺守瑛(富田の野田家の出身である。宝永四年1707=`安永8年1779≠ナ、世寿73歳)の撰文である。

 宝暦癸 未は同13年で、西暦の1763年江戸時代中期の造搭である。

 なお、岩田・上田熊の祇園社境内の宝篋印塔は、やゝ大形であるが銘文は同文である。

 しかし造搭年月日は10年後の明治九年(1772)である。また、当搭は三面(一面は一行七字、七行)に刻まれに対し、祇園社の宝篋印塔は四面(一面は一行七字、七行)に刻まれる。

2.円鏡寺の宝篋印塔   朝来

 円鏡寺本堂の南側墓地にある。完存。凝灰岩製。高さ51センチの切石積み二重基壇をつくり、その上に反花座と請花座を設け、総高240センチの宝篋印塔をおいている。搭身は月輪内に四仏の梵字を陰刻している。隅飾突起は一弧で輪郭をまき、渦文のある美しいつくりであるが、大きく外方に開いた江戸時代通有の形式である。基礎側面には、

(正面)

奉   六十六部

大乗妙典供養塔

納   日本廻國

(右側面)

天下泰平 五穀成就

日月清明 諸縁吉利

 

(左側面)

願以此徳 普及於一切

我等與衆生 皆共成仏道

(裏面)

文政六年癸 未

  當邑 嘉蔵

  願主 ひで 

更に反花座側面には、

(正面)

 

生馬邑

 長太夫

 佐 市

金屋邑

 和 助

大内谷

 新兵衛

市鹿野

 八右衛門

 利兵衛

 冶左衛門

 源 蔵

 長 八

 與次兵衛

 彦右衛門

(左側面)

 

石工市之瀬

小三郎

竹垣内

 佐藤次

瀧 邑

 金吾

 

(右側面)

 

當邑庄屋

 六兵衛

同肝

 常七

世話人

同 岩蔵

   若山

助力 正山

   下総州

   好蔵

 

 

(円鏡寺の宝篋印塔)

(円鏡寺の宝篋印塔)

 と陰刻されている。文政六年は西暦1823年で江戸時代後期の造立である。日本全国66州を廻国することは難行で、時には志半ばにして死に至る場合も多い、それ故に自らを行者と呼ぶ、町内で廻国供養に宝篋印塔を造立しているのは、この一基のみで貴重な信仰資料である。

3.祇園社の宝篋印塔   岩田・上田熊

 上田熊・祇園山山頂の祇園社境内にある。相輪頂部の宝珠の一部を欠くほかは完存。凝灰岩製。高さ48センチの切石積み二重基壇をつくり、その上に反花座と請花座を設け、搭高132.5センチの宝篋印塔がおかれている。搭身には月輪内に金剛界四仏の梵字を刻み、笠は軒上六段、下二段型、隅飾突起は覆輪付一弧の無地で、大きく外方に開いている

基礎側面には、

(正面)

經不云乎若有善

男善女爲夭上道

造搭安置神呪所

得功徳説不可盡

若人暫見是搭能

(左側面)

除一切災難當知

以此寶篋印陀羅

尼威神力故也鳥

虖法界群生倶霑

利楽何以乎侈

(裏面)

銘曰

這大寶搭撑地柱天

萬佛秘歳三世福田

玲瓏物表焜燿目前

最尊最大不崩不騫

(右側面)

緇白慶讃家國安全

業海頓涸信根益堅

用聲帰敬共結勝縁

豈明和九壬 辰三月

東福 守瑛拜

さらに、反花座の側面には、

 

(左側面)

 

田熊柱

和介 謹

長慎 拜書

之也

(正面)

石工

岩田往

源蔵 

 と陰刻されている。この石塔の銘文は、岩崎・正福寺の宝篋印塔の銘文と同文で、京都五山の一つである東福寺の262代の住持(管長)王嶺守瑛(富田の野田家の出身で、宝永4年〜安永8年−1707〜1779、世寿73歳)の撰文、明和9年は西暦1772年で、江戸時代中期末である。

4.興禅寺の宝篋印塔

 興禅寺宝篋印塔は、本堂裏観音堂横にある興禅寺第1号経塚の上にある宝篋印塔で、凝灰岩製。高さ48センチ、切石積みの上に請花座と反花座を設け、高さ24センチの基礎があるが近世宝篋印塔の特有の請花座・搭身・笠部・相輪はなく、別の笠・相輪がのせられている。基礎側面には、

(正面)

普門品三十三部

地蔵経   二部

薬師経   二部

阿弥陀経  二部

金剛経   二部

(左側面)

虚空蔵陀羅尼 二部

尊勝陀羅尼   二部

宝篋印陀羅尼 二部

甚深大回向経 二部

従上金文衆妙門

(裏面)

文明騰寫石如混

以斯攻徳奉塵刹

復後毘餘慶存

奉三宝弟子攻徳主

玉置氏義知鞭曠却

(右側面)

不朽之願輪騰寫

者也

豈安永六龍舎丁酉

孟正吉良辰建之

大雄山現住仁周識焉

 石塔造立の紀年銘や経典を納めていることが刻まれている。安永6年は西暦1777年で江戸時代中期末である。なお、昭和60年(1985)境内整備中、長方形の石室遺構が発見、約7万個の経石が出土した。その中の目録石とこの搭身に書かれている経典名が一致することから、この宝篋印塔は経塚の経碑であることがわかった。

(参照『上富田町史・史料編下』「第三節・上富田町の主要な経塚」)

(興禅寺の宝篋印塔)

(興禅寺の宝篋印塔)

5.門垣墓地の宝篋印塔   市ノ瀬・両平野

 市ノ瀬・両平野の門垣墓地内の六地蔵の傍らにある。凝灰岩製。基礎と反花座の間に、後世の「三界万霊」の別石を狹みこみ、異様に高くしている。また相輪を欠損する。別石「三界万霊」を除いた現存の高さは、60センチである。基礎は高さ23センチ、幅25センチ、奥行24センチで、四面には輪郭をまき、その中に格狹間こうざまを彫刻している。

 搭身は14センチ方形で、月輪内に金剛界4仏の種子を刻んでいる。笠は下端二段、上端は6段の段型につくられている。隅飾突起は無地で、やゝ長味を帯びている。町内で基礎部に格狹間を彫刻しているのは、当搭のみで貴重な資料である。銘は基礎裏面に刻されていたのであろうが摩滅して解読は不可能である。形式からみて南北朝時代の造搭であろうと推測される。

(門垣墓地の宝篋印塔)

(門垣墓地の宝篋印塔)

 

 

 

一乗寺の宝篋印塔の銘   市ノ瀬・後代

 龍松山城の南麓の一乗寺大師堂に接した墓地にある。搭身、笠、相輪を欠くために、現在新しく造った宝塔をのせて異様な宝篋印塔にみえる。砂岩製。高さ60センチの切石積み二重基壇をつくり、その上に高さ33センチの基礎を設ける。基礎側面には、

(正面)

奉書写大乗妙典

同  延命地蔵経  

同  阿弥陀経    

同  般若理趣(経カ)  

同  甚深回向経  

同  幾綱戒経    

  奉誦阿弥陀尊号 

 

一巻

一巻

一巻

一巻

一巻

(左側面)

奉誦持光明真言

同  延命十句観音経
右天祐紹運居士 章休敬白
奉誦持阿弥陀尊号 九十七万
八千遍
同   光明眞言 三百三十
四万遍
同   延命十句観音経 二十六万
二千百遍
右良顔微笑大姉 章休母敬白

(右側面)

  左寛居士 恒敬白

(裏面)

一見率

兜姿

永離三

悪道

 

(一乗寺の宝篋?印塔の銘)

(一乗寺の宝篋 印塔の銘)

奉納日本回國大乗妙典牘

四千八百
三十四遍
 延命十句観音経
奉誦持光明眞言
左縁岸正固大姉 章休妻敬白
 光明眞言
奉誦持阿弥陀尊号

(基壇正面)

経曰一称南無仏皆己

成仏道况於誦持

写攻徳金口所詮

呼懿我田上章休及

家年来所書持金

文甚多造建宝

搭一基以伸法供養専

(同左側面)

回向三世当住三宝

生父母世兄弟及法

界含識仰見聞円

澄人眞如実際自他

證仏果菩提更

祈天下平風調雨

順五穀豊登萬民康

(同右側面)

楽家道興隆諸縁吉

利如上功徳上報四恩

下資三有同圓種智

文政四年辛己歳二月吉日

前禅興見長徳苗眞浄識

  現住興禅之友山書

  願主田上 章休 立石

 と経典の写経・読誦の後に修する回向文とが陰刻されている。文政4年は西暦1821年で江戸時代後期である。撰文は建長寺218代住特(管長)真浄元苗和尚(白浜堅田の細野の津田家出身、興禅寺八世快応玄活和尚の弟子)で、書は興禅寺九世友山隠之和尚である。

 願主の田上章休(安右ヱ門)恒(吉良ヱ門)兄弟で、中世当地方の領主山本氏の家老職家の名門で、天正年間の田上右京之進宗正の裔である。

 なお、現在新しく造ってのせている宝搭に刻まれている『露』の字は、章休、恒兄弟の父、田上喜平次の法名芳園露容居士の一字を記したものと推定している。

(文責 伊勢田 進)