●朝来伝馬所と大辺路 

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 まえがき

 徳川氏が伝馬制度を設けたのは三河時代からで、幕府成立とともに全国へ拡大した。

 大名領でも幕府の伝馬制に準じて伝馬所を設置した。

 紀州では浅野時代から伝馬所が置かれ、伝馬掟も布達されている。

 紀州徳川家の初代藩主頼宣が元和五年に入国すると、伝馬制度の整備をすすめ、紀州勢州和州の本藩領の主要街道に「三十八ヶ伝馬所」を設置した。

 熊野街道は和歌山を起点に、内原・加茂谷・宮原・湯浅・井関・原谷・小松原・印南と本藩領を経て、田辺領に入って南部伝馬所から田辺伝馬所に至り、田辺城下で中辺路と大辺路の二手に分かれて延伸していった。

 田辺領を通過する熊野街道には本藩とは別支配の伝馬所を設置した。南部、田辺の両伝馬所のほか中辺路に三栖・三番芝・大辺路に朝来・富田の伝馬所を置いた。

 伝馬所には伝馬と人足を常備し、幕府や藩が公用と認定した貨客の輸送を義務づけた。公用の貨客に幕府は「御朱印伝馬」を、藩は「御用御証文」を発給し、伝馬・人足・宿泊の準備を先触で達した。先触をうけた伝馬所は御定伝馬の範囲内で無賃輸送を行った。

 このように伝馬所は、本来公用の貨客を輸送するために設置された機関であった。

三栖口の道標

三栖口の道標(田辺市北新町)

あたご山から不動坂を望む

あたご山から不動坂を望む(昭和3年)