●朝来伝馬所と大辺路 

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 新庄峠から朝来伝馬所まで

 田辺城下で分岐した大辺路は、どこを通っていたのだろうか。朝来組から富田組にかけての道筋は十分に確かめられていない現状である。以下、大辺路を記述した文献を引用しながら推測してみよう。

 新庄の若一王子社(現大潟神社)前を通り新庄坂を越え、道わけ地蔵を経て大沼の糠塚に至る。糠塚には厳島神社が鎮座し、峠と大内谷の産土神として祀られていた。また此の地は大辺路の一里塚でもあった。

 この附近には朝来大沼が広がり、字大沼・大内水入・峠・大内谷一帯は沼沢地であった。そのため降雨で沼水が道を浸すと通行不能になった。明治末から大正初頃の状況を『朝来村郷土誌』は毎年大抵一二回は浸水の為め熊野街道の往来さへ杜絶すること少なからざりしと伝えている。この朝来大沼に沿って通過する熊野街道の地点を『朝来郷土誌』

新庄の道わけ地蔵

新庄の道わけ地蔵

(右ハ大べち道、左ハ熊野路)



 

大沼の糠塚

大沼の糠塚

峠地蔵堂

小黒水 

大沼

厳島神社

峠にあり熊野街道に沿へる一小宇にして石地蔵を安置す

熊野街道通ず

熊野街道に沿ふ

惣田川に沿い熊野街道通ず

熊野街道に沿い社祉現存す と記している。

そして熊野街道の改修を

 糠塚より梅田に至る間の如きは却て道路低くし、一朝大雨至るや沼水怱ち道を没して往来杜絶すること数日、街道中最も不良箇所たりしを……明治二十七年に至り漸く一直線の坦道完成せり と述べている。この坦道は陸地測量部の明治四十四年測図五万分一地形図「田辺十号」にみられる熊野街道大辺路の名号が付された道路に合致する。しかし、この道筋は峠地蔵を通る大辺路とはちがっている。これは明治初年と大正八年の新庄峠切り下げで、道筋が変わったためだと思われる。朝来大沼の場合も同じであったろうと思われる。

 とにかく大辺路は明治以後に改修されて変わっていったようで、近世の大辺路とどこまで一致するものであるかは、更なる史料の発掘で確かめる必要があるかと思われる。

 天保期(1840頃)の朝来大沼の記した「湯峰温泉の日記」は、大辺路の道筋について

 この大へち道といふ方に物す。朝来坂打こえつゝ朝来村・平村なといふを行く、朝来の沼いと広き所なり、雨ふれはこの沼みな水にひたりて道もあらす、その時は川そひの道を物すとそ

とあり、大辺路は朝来村から平村へと通るのが順道であるが、浸水したときは富田川堤を通行するとしている。しかし、平村への道には朝来伝馬所は所在しない。

 官道としての大辺路は『朝来村耕地整理碑』の裏面に

  此ノ碑石ハ古来大沼大橋と称シ熊野街道上ニ架セラレタルモノ、耕地整理ノ結果、惣田川ノ変更ト共ニ不用ニ属シタルニ由リ

とみられるように、字大沼で惣田川に架せられていた大沼大橋を熊野街道が渡っていたけれど、耕地整理で「惣田川ノ変更」或は郷土誌のいう「惣田川を廃し」たために、大沼大橋が不用になったという説明は、大沼から惣田川に架せられていた大沼大橋を上通りへと渡ったと理解するのが妥当であろう。

 そして『熊野参山独案内之記』のように「とひの尾坂」を越えたのであろう。とひの尾は『朝来郷土誌』に日隅神社が上通り鳶尾にありと書かれているから、現在の鳶野である。