●朝来伝馬所と大辺路 

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 朝来伝馬所の所在地

 朝来伝馬所はどこに設置されていたのであろうか。現在は所在地を示す文献史料の発掘がなされていない。

 『朝来郷土誌』

 大辺路街道 大字朝来梅田にて田辺より来れり(中略)大字岩崎より郵便橋を渡り(中略)新宮町に向う県道熊野街道の一

 中辺路街道 大字朝来梅田にて分岐(中略)岩田・市ノ瀬・鮎川の諸村を経て(中略)本宮に至る県道熊野街道の一なり

と記しているように、梅田で大辺路と中辺路は分岐しているが、中辺路が朝来村梅田を起点にし、真砂で旧中辺路と合するようになったのは、明治四十三年の県道整理によってである。

 現在国道42号と311号の分岐点に立てられている道標は、元は上通り(梅田)の大辺路と中辺路の分岐点に立てられていたものを移転したといわれている。この道標は写真のように「右大遍路、左中へ路」と刻まれ、側面に明治三十一年建立と刻記されている。この頃から中辺路といわれていたのだろうか。

 この道について『和歌山県史・近現代史料一』所収の明治十九年度地方税補助道路は、朝来村を起村に市ノ瀬・鮎川・北郡・真砂を経て栗栖川村に達村する道路を、栗栖川通朝来往来といっている。「旧岩田村文書」にも二十四年に朝来往来、二十六年に富田川沿朝来往来とある。明治三十三年十一月に県令第八十三号を以て県道に編入されて朝来街道と街道名が付された。明治四十四年陸地測図の五万分一地形図にも朝来街道の名号が付されており合致している。

 この時点では大辺路を熊野街道といったが、朝来から分岐した道の公称は朝来街道であった。これが大正二年四月以後は熊野街道中辺路筋と公称され、旧中辺路の真砂から田辺町までを田辺街道と称するようになった。

 梅田の道標
梅田の道標

 このように明治から大正にかけて、近世の街道名と道筋に変更が加えらた。それ故、明治以降の街道名から近世の街道を認定するのは困難となった。まして、廃された伝馬所の所在地を確定するのは大変なことである。

  和歌山城天守閣蔵の『紀伊国絵図』では伝馬所の所在地に印をつけている。いずれも街道筋の中心に印をつけている。大辺路の道筋は岩崎まで示し富田川で切れ、内ノ川から十九渕へと再び道筋を示している。ところが朝来伝馬所は街道から東へ逸れ、生馬との間に印がつけられている。これは単なる偶然なのか、今は確かめる術がない。しかし、楠本長太郎氏がかつて古老から聞かれたところでは、朝来伝馬所は下内代に所在したということである。だとすれば岩崎の方へ示された道筋から東に逸れて印が付されているのは、何の不思議もない事実に則したものといえる。


伝馬所跡(伝承地)
 

 朝来の伝馬役は金屋村と下村で請負っていた。元禄年中(1692頃)の「朝来組万覚帳」に伝馬が金屋村六疋・下村十疋、人足が金屋村十七人・下村二十三人と書上ている。正徳三年(1713)の『万代記』にも金屋村・下村の朝来伝馬所へ引高二〇〇石給与が記されている。

 下内代に鎮座していた諏訪神社の棟札が写真のように残されている。延宝9年(1681)7月の棟札の表面には「神主伝馬村又兵衛・大工鉄屋村六郎兵衛」と記され、裏面には

  

 大庄屋市之瀬村中野七大夫 

小庄屋

上村源右衛門

鉄屋右門兵衛

伝馬与左衛門

大内谷文之S

諏訪神社の棟札

諏訪神社の棟札(延宝9年)

とみられる。天和三年(1683)九月の棟札も

 大庄屋中野七大夫

   大工金屋六郎衛

   神主  又蔵

小庄屋

 伝馬與左衛門

 金屋右門兵衛

 上村源右衛門

と記されている。このように十七世紀末には下村を伝馬村と呼んでいたようである。

 十八世紀頃の記録と思われる。『田辺藩古記録』『在方諸事覚帳』には

      一朝来下村    一冨田高井・吉田

というようにみられ、朝来伝馬所が下村に置かれていたようになっている。

 文政一〇年(1827)の『諸日記』(『松のみどり』所収)には

     覚

  一封状壱通也

  右ハ急用ニ付市ノセ上組庄屋喜兵衛ヘ飛脚継を以無滞可持届也

    十一月十六日午中刻    御代官所

     湊村より朝下村 是より直届

  と飛脚継の封状が朝来下村=伝馬所を経由して、市ノ瀬上組庄屋へ直届されている。

 このように、朝来伝馬所は金屋村のうちの下内代に所在し、伝馬・人足は金屋村・下村で請負い、宰領をした伝馬庄屋は下村が勤めていたのである。

 また伝馬所は高札場でもあったから、朝来伝馬所にも「切支丹緒交付御高札」と「捨馬御高札」の禁制高札が建てられていた。