●朝来伝馬所と大辺路 |
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朝来伝馬所の所在地 | |||||||||||||||||||
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このように明治から大正にかけて、近世の街道名と道筋に変更が加えらた。それ故、明治以降の街道名から近世の街道を認定するのは困難となった。まして、廃された伝馬所の所在地を確定するのは大変なことである。 和歌山城天守閣蔵の『紀伊国絵図』では伝馬所の所在地に印をつけている。いずれも街道筋の中心に印をつけている。大辺路の道筋は岩崎まで示し富田川で切れ、内ノ川から十九渕へと再び道筋を示している。ところが朝来伝馬所は街道から東へ逸れ、生馬との間に印がつけられている。これは単なる偶然なのか、今は確かめる術がない。しかし、楠本長太郎氏がかつて古老から聞かれたところでは、朝来伝馬所は下内代に所在したということである。だとすれば岩崎の方へ示された道筋から東に逸れて印が付されているのは、何の不思議もない事実に則したものといえる。 |
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