●朝来伝馬所と大辺路 

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 朝来伝馬所までの駄賃定

 公用の貨客を輸送するには御定伝馬の範囲であれば無賃、それを超過すれば御定賃銭であった。そのため伝馬所村は諸役を免除されていた。諸役とは年貢とは別に村高に対して賦課される固定した付加税である。一〇〇石につき弐夫米は二石、郷役米(壱分三厘米)は一石三斗、糠藁代米は一斗九升を徴収された。

 田辺領の伝馬所村は村高のうち二〇〇石分の諸役米六石九斗八升が役引されていた。これを「費料」といって伝馬所の経費に使った。更に「御伝馬米」といって年貢米から四石を支給された。また馬の買替えに「御伝馬拝借銀」が無利子で貸付けられ、四〜五年で返済すると「車借」で借銀できた。

 伝馬所に対する保護策は、無賃や御定賃銭だけの輸送では失費が多く、生計が成り立たなかったからである。

 それでは、朝来伝馬所と田辺・富田伝馬所間の「駄賃定」(御定賃銭)はどうなっていただろうか。

 『万代記』に田辺と三栖間の御定賃銭が、元和六年(1620)に決められているから、頼宜入国と同時に定められたと推測できる。

 田辺と朝来間の御定賃銭を『田辺町大帳』は、延宝三年(1677)に田辺町大年寄の廻達として

     田辺より朝来    七十壱文ニ成

とみられるのが初見である。その後『従紀州和歌山同国熊野之記』にみられる。

     従富田 朝来迄  一里遠   七拾三文

     従朝来 田辺迄  一里半近  七拾壱文

は、貞享二年(1685)頃の駄賃で、延宝三年と同じであった。ところが元禄二年(1690)、写真にみられるような九月八日駄賃壱割増(中略)朝来へ七十八文と駄賃を一割増にする通達が出された。

 宝永四年(1792)に藩主吉宗が「駄賃付」を定めた。この駄賃は記録として残っていないが、宝永七年・享保元年などの御定賃銭から推定して、廃藩(明治四年)まで不変であったことがわかる。もちろん、災害や飢饉、社会変動があるとこの「駄賃付」を基準に何年間・何割増という形で賃銭が決められていた。 

元禄2年の駄賃割増通『万代記』

元禄2年の駄賃割増通(『万代記』)

 

○擱筆にあたり杉中浩一郎氏・伊勢田進氏・桑畑康宏氏・谷本圭司氏らのご教示と、堀純一郎氏・田辺市立図書館・和歌山県立図書館のご協力に、厚くお礼申し上げます。文責 廣本 満