●南方熊楠と上富田町 

      トップ> 上富田町文化財教室シリーズ


 町内での採集記録

 明治三十七年秋、田辺に借宅した熊楠は精力的に田辺近郊の山や川、海辺を巡って植物調査に余念がなかった。キノコや粘菌ねんきんなど、ほとんどまだ研究の及んでいない分野では、特に収穫が多かった。調査の足を上富田に延ばしたのは翌年五月のことである。

 明治三十八年(1905)

 五月二十日 此夜大雨、明朝出で行くに朝来辺水甚だ満ち、長井谷の池等道路徒渉としょうを要するところ多し。

 五月二十一日 天気くもりはなはだ疑わしかりしが共に出、闘鶏社前にて福吉ふくよしにあう。長井谷より救馬谷にこえる道中にてクリハランとる。また、はたして矢野氏の言の如く白及しらん(注・紫蘭しらんのこと)一本予見当る。千本氏(名、武吉)岩壁をよじのぼり十余本とる。予も道傍小川の岸にて一本とる。それより救馬谷観音にて弁当くう。僧等三人、縁日前日にて荘飾し、料理こしらえいる。瀑布を見、下る所にてコルチナリウス一種獲、記載画図中学生如きもの五六人集り見る。千本氏はその辺にあるきオオトンボソウ、鹿蹄草いちゃくそうとる。それより岩田、岡より三栖千法寺の裏へこえる。

 これを見ると、新庄の長井谷から朝来の大沼へ行こうとしたが、前夜の大雨で水が氾濫して行けそうになく、しかたなく救馬谷観音へ越して、そこで昼食、滝などを見て少し採集、岩田、岡を経て三栖の千法寺(現、報恩寺)裏へ出ている。詳しい記述はないが、岡の田中神社の森や八上王子社の森なども興味深く観察したものと思われる。しかし皮肉なことにその観察の成果は植物調査に役立つよりも、森の保存のために役立てねばならないことになった。