●南方熊楠と上富田町 

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 神社合祀の嵐の中で

 明治三十九年十二月十八日、西牟婁郡役所は各町村宛に神社の一町村一社を標準とする存置と、無格社の村社合併について来年四月まで終わるようにという通達を出した。村社以外で今まで通り置いてもよいのは、特別に由緒のある神社か、維持管理がりっぱに出来るという保証(積立金)があることとなっていた。これは明治政府の訓令を県知事が郡役所へ指示したもので、村長の中には不必要に強引な合祀ごうしを行うものが出た。上富田町内では明治二十二年に岩田村、岡村が合併して岩田村に、朝来村、岩崎村が合併して朝来村になるなどの結果、合祀の対象となる神社が多かった。中でも熊楠がその環境と共に保存させたいと強く願ったのは、中辺路なかへち参詣道に残る八上王子社、稲葉根王子社であり、民族学上も貴重な遺跡としてヌカ塚(朝来)と田中社(岡)があった。神体はともかく、合祀後もその森だけは何としても後世に残したい。

 そこで神社合祀によって起る弊害を実地に調査し、その惨状を写真に収めて国会の場へ持ち出そうと熊楠は行動を開始した。熊楠の合祀反対の第一声は田辺で出ていた「牟婁むろ新報」の明治四十二年九月二十七日付けに掲載され、その後は東京朝日新聞、大阪毎日新聞、雑誌「日本及日本人」などへ矢つぎばやに投稿、世論を喚起するのに努めた。次の日記はその材料の収集に上富田を訪れた前後のものである。

 明治四十三年(1910)一月二十三日 本日の大阪毎日新聞にカノヘゴの記及び予の神社合併運動に関する説話出づ。

 一月二十四日 夕、辻一太郎招き来る。写真機とりに帰り後来る。共に神子浜みこのはまにゆく。六本鳥居の社撮影。

 一月二十五日 辻氏と岡へゆく約束のところ雨につき見合わす。

稲葉根王子の森

稲葉根王子の森

 一月二十六日 午前十時頃起く。辻一太郎氏に同行をすすめに下女遣わす。風邪にて行けず。

 一月二十七日 昨日より和歌山新報も予の神社合祀反対意見連載。

 一月二十八日 朝八時頃起。 辻氏感冒平治の由ゆえ、午下ひるすぎ家を出、同氏を訪い共に横手八幡(写真とる)より三栖千法寺、それより岡に出、途中松グミ生たる松の下に予裸にて立ち喫煙するまま写真。岡の八上王子及中宮写真、それより岩田大坊、松本神社写真、黄昏たそがれなり。朝来入口にてまる淡昏うすぐらくなる。それより新庄を経帰る。予脚絆はくを忘れ脚はなはだ痛む。