●藩政時代の水害と治水  −富田川の災害と治水(その1)− 

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 彦五郎堤防の成立

市ノ瀬不動の尾山足を切り取り、川替えしたと言われる登り尾

市ノ瀬不動の尾山足を切り取り、

川替えしたと言われる登り尾

『松のみどり』(中松康弘家文書)と(木村善明家文書)は、山本主膳四代目城主大富殿による、富田川の流路の付け替え工事のとき市ノ瀬字不動の尾山足を切り取ったとあり、市ノ瀬村畑山、岩渕から岩田村大坊、片井へと流れて、さらに朝来村清水、梅田を流れて大沼に至る。大沼で湾曲して塗屋へ流れ、岩崎村の不動から北富田村保呂、内ノ川へと流れていたと記している。いつの話であるのか明らかにはできないが、宝暦年間(一七五一〜六四)から数えて一八〇年前に工事がなされたという伝承があるという(上田萬一「彦五郎堤の歴史的意義」)。この伝承を肯定すると、逆算して元亀二年(一五七一)〜天正一二年(一五八四)にあたる。紀州攻めをした豊臣方の杉若氏に攻められて、山本氏は天正一五年(一五八七)に滅亡するが、滅亡する少し前に富田川流域を支配する領主として、富田川の流路の付け替えに取り組んだということになる。現在の川の流路にどのようにつながっているか、まったく不明であるが、富田川の川の付け替えの年代について注目しておく必要があろう。           

 さて、慶長六年(一六〇一)の検地によると、朝来村の村高は一六八五石六斗八升五合で、一四四町二反七畝二六歩の面積である。また元禄期の新田高は八石七斗二合六勺、面積は一町五反二歩である。慶長検地以後朝来村ではほとんど新田畑の開起がおこなわれていないのである。もしも一七世紀中ごろに富田川の付け替えがおこなわれ、彦五郎堤もつくられて現在の流路のようになったのであれば、それまでの流路跡などの河川敷の新田化がすすめられれ、新田がもっと増加しているはずである。朝来村に新田が少ないことは、慶長期にはすでに強固な堤防も築かれており、現状に近い景観になっており、新田開発の余地がなかったと考えられよう。

岡村の慶長検地帳(八上神社提供)  岡村の慶長検地帳(八上神社提供)

 紀南地方では、慶長検地の石盛は「上田十六.五(1haあたりの収穫高を十六.五石)」、「中田十五」「下田一一」「下々田八」となっているが、彦五郎堤に近い生馬村本郷では、田辺領の石盛三段階の最上位に登録されている。慶長検地時には開墾されたばかりの新田ではなく、土地の状況の良い本田であったと考えられる。

 以上のことから彦五郎堤は、一七世紀中ごろに大規模な築堤工事が実施されたという可能性はきわめて低く、普請工事がおこなわれたとしても、せいぜい修築程度であったと考えなければならない。

 富田川筋の土手普請について、『万代記』に最初に出てくるのは延宝九年(一六八一)九月十八日である。富田組保呂村で普請工事が始まると、田辺組から八五〇人の人足が動員され、扶持米六石三斗七升五合が出され、一人あたり七合五勺ずつ給されている。天和三年(一六八三)九月一一日〜十月三日にかけて、市ノ瀬村で普請があり、このときも田辺組から四四九人の普請人足が出ているが、他組からも同じように出動していたのであろう。普請奉行三浦与市兵衛と下奉行植松代右衛門が普請場へ出張している。富田川筋の大規模な土手普請が本格化するのは一七世紀後半ではなかろうか。

富田川流路の変遷