●藩政時代の水害と治水  −富田川の災害と治水(その1)− 

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 正徳・享保期の災害
諏訪神社跡鎮座碑(正徳五年)

諏訪神社跡鎮座碑(正徳五年)

 正徳四年(一七一四)八月八日の夕方から夜中にかけて暴風雨があり、田辺領でも家屋が大破する家が出た(『万代記』)。和歌山でも百年この方記憶のない大風が吹き、大被害をうけている。有田、日高から熊野の浦々では、高潮と大風が襲って死者も出た。木綿は折れて倒れたので、口六郡の村々では引き抜き捨てるところも多く、藩は、この年の木綿の年貢を免除しなければならなかった。『南紀徳川史』も、正徳四年は年貢は格段と減ったと凶作の状況を述べている。当然のこととして米価が急騰した。田辺では八月中旬から九月にかけて高騰が始まり、米を買占める商人が出てきたので、郡奉行・代官は高利で米を貸しつけることを禁じ、30%以上の利子をつける者があれば報告させ、返済させると村々へ通達している。

 翌五年三月には、田辺領内大庄屋が連名で御救扶特の拝借を出願して麦の貸しつけをうけている。四月十八日に安藤家御勝手方から米一〇〇石が下げ渡されたが、領内の救恤の対象者は一万一八九五人であった。

 この年六月二三日、また大洪水があり、田辺の町方が浸水し、在方の田畑も冠水が著しく、道路の破損個所も多く出たので、安藤家は東方破損所の見分に代官水嶋太郎兵衛と郡奉行長坂又佐衛門を、西方破損所の見分には代官太田三右衛門と郡奉行石川甚内を、それぞれ見廻らせている。

 同六年(一七一六)正月、大庄屋が連名で提出した再願には、災害の調査をするに従い損害が拡大していき、正月になってからは、飢百姓がますます多くなっている。普請方へ報告した普請を必要とする個所以外にも井関、溝、田地の修繕をしなければならない状態でとても他組への出人足は出せないと訴えている。

 正徳六年二月の大庄屋連名による郡奉行への提出した「田畑荒起」の入用銀拝借の証文によると、荒廃した田畑の開墾にのべ八万六七五六人四分の人足の徴発として、銀一二九貫四五八匁九分五厘の利銀の借用を郡奉行へ願い出ている。そのうち朝来組へは、三一貫四二二匁七分二厘、富田組へは六貫一匁八分、切目組へは三七貫四九九匁四分二厘、三栖組へは二三貫四四八匁六分というように大川の流域にあたる地域へは重点的に資金を投入している。朝来、富田両組をあわせて二九.七%の額となり、富田川の修築とそれに付随する田畑の開発に要したものであろう。

 しかし、普請所への出人足は農民にとって、たいへんな負担であった。これまで郷人足の給付米は、「所人足」(その土地から出た人足)は一人五合、「他村人足」(他村からの人足)は七合五勺であったが、それでは人足に出る農民がそろわないので、「所人足」は一人一升ずつ、他村人足は、一人一升二合にしてほしいと大庄屋が連名で郡役所へ願い出ている。「洪水ニて在々田畑損亡、川除、道橋破損所御見分」とあるように、洪水が発生するたびに、田辺から普請方の役人がすぐ被害地へ見分にきて、その状況を把握して対応を相談した。

 正徳期は水害のあとは、享保期の大旱魃に悩まされた。天水懸り、池懸りの田畑の米麦は立ち枯れの状態になっていた。『万代記』も享保三年(一七一八)七月五日に「雨乞い」が許可されたので、真言宗の僧侶による祈祷と村々の氏神での百姓踊りがおこなわれたことを伝えている。

 享保九年(一七二五)も、四月一七日か七月十八日まで一〇〇日ほど降雨がなく、旱魃に見舞われた。勝手方役所は、町方から三〇石の米を借りて領内の一〇組へ水取飯米として三石ずつを貸しつけ、「水取出人足」への飯米に貸し与えている。三栖組では、溝掘りや井戸掘りなど昼夜兼行で水の確保につとめた。井戸や川の溜り水がなくなると、川原や田地を掘って水を汲みあげている。

 連年にわたる享保期の旱魃は、ついに同一七年(一七三二)の夏の西日本全域にまたがる蝗害による大凶作につながっていくが、田辺領でもこのとき被害が出ている。「当立毛うんか虫大分つき、殊のほか不作にて青くさり白くさり大分の悪作」と『万代記』にある。田辺の松雲院では七月二十五日から三日間の祈祷がおこなわれ、各組から大庄屋と組代表の庄屋二人と大年寄、丁年寄が詰めている。郡奉行、代官も参詣し、結願には目付衆、奉行衆など総出で参詣した。

 しかし翌一八年の春は、未曽有の大飢饉となり、紀州藩でも飢饉対策にお救米三七四〇石を領内に配布した。「熊野大饉・竹草の根を喰」と『熊野年代記』は記しているが、田辺領でも同年四月上旬の書き上げに、組内の飢え人の数は二万二〇〇〇人余、お救米三〇〇石と報告している