●藩政時代の水害と治水  −富田川の災害と治水(その1)− 

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 川舟と流路の維持

 延享二年(一七四五)六月の御山方役人の口上によると山方仕込みの御材木丸太などが、大水のため奥地から流出しだし、川丈の村々や磯辺まで流れ出したので、それを拾って売買しているとの噂があるが、それに対する対応策を考えている。

 こうした矢先の十一月に本藩では、以前から噂のあった富田川口から三番組まで川舟ができ、野中、近露などの二五村筋や、玉伝あたりの山産物の搬出を考え出した。これまて一手に山産物を取扱っていた田辺城下の諸問屋が反対の声をあげているが、川舟の計画は、二一年前の享保十一年(一七二六)にもあり、富田川の舟運は、奥地の林業開発に大きな影響を及ぼしただけでなく、流域の村々の産業経済の発展と深くかかわっていた。

 それだけに当地域の流通の軸として河川の維持がはかられ、川舟の流路の整備がなされた。過酷な作業であったが川ざらえがくりかえされた。洪水などの大水がでたあとの土砂の堆積や流路の埋没には苦労した。