●藩政時代の水害と治水  −富田川の災害と治水(その1)− 

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 嘉永元年の水害

子御用留帳(文政11年)中松康弘家文書

 子御用留帳(文政11年) 中松康弘家文書

 嘉永元年(一八四八)八月は、九日と十二日に二度にわたって大洪水に見舞われた。『田辺町大帳』には、「九日大水のこと」とし、前日の八日から風雨が強かったが、夜前より暴風雨がいよいよ烈しくなってやすみなく降り、九日早朝にはいずれの川筋とも大水があふれそうになっていると、すさまじい暴風雨のようすを伝えている。田辺では会津川が増水し、切戸の土手が決壊しそうになったので、丁々から俵を二〇俵、江川から六〇俵を拠出して土嚢どのうを作って積みあげ、水を防ぐことに成功した。大年寄や丁年寄など町方の役人だけでなく、御奉行、町御奉行、御普請奉行、御目付、御作事方など領主側からも大勢の役人が総出で警戒にあたっている。町方では人々は「六一年目の大洪水」と呼んでいた。

 この暴風雨は、日置川と富田川にも大きな被害をもたらした。『田辺町大帳』は、日置川筋や周参見あたりで家屋が流失し、死者も出ていることや材木などの流失はおびただしく、日置川筋の流失木材は八〇〇万才(八〇〇万立方尺)ぐらいと記している。

 富田川筋では、朝来組内で二〇軒分が流失し、鮎川、市ノ瀬、岩田の各村の川沿いには、かなりの流失地ができて荒廃した。

 また田辺組大庄屋の「御用留」にも、八月八日は夜通し大風雨、九日は巳刻(午前一〇時)に晴天にもどるまで、長時間にわたる降雨の状態を述べ、会津川は「九合水」で、三四年ぶりの大増水であった。富田川も一〇〇年このかた人々の記憶にもない大水といい、朝来、富田両組のあちこちで堤防が切れ、五〇〜六〇年前(天明八〜安政一〇)に開発された川原新田(場所は不明)は流失してしまった。

 生馬村では床上へ浸水しなかった家はなかったとある。朝来組では、流失した家は本棟一二軒、棟数は全郷で二三軒、富田組では二軒であった。玉伝村庄屋亀太郎が周参見組大庄屋原喜大夫に対して、大洪水によって田畑四石四斗五升四合(九反一畝二七歩)が「川成荒」(洪水などで川原になって荒れた耕地)になったので、検分のうえお救米を給付してほしいとの歎願書を提出している。

増水した富田川 岩田付近 (昭和50年ごろ)
 増水した富田川 岩田付近 (昭和50年ごろ)

 嘉永元年八月の大洪水は、富田川、日置川の被害は殊のほか大きかったが、日置川筋は、さらに翌二年七月と同三年八月にも洪水におそわれており、三年連続して水害に見舞われた。

 芳養、南部、切目の各河川は、六月四日の出水のときよりだいぶ少なかったが、日置川と新宮川は「古来未曽有の大洪水」と被害も大きかった。日置川沿いの安居村では、五〇軒余が流れ、残ったのはわずか六軒で、その他の川筋の村々でも流失した家屋は三〇〇軒、田畑の多くは川原になったが、白昼であったため、死者は日置川川筋全体で二人ですんだのは不幸中の幸であったと田辺組大庄屋「御用留」は記している。

 なお同「御用留」には熊野本宮大社の被害の状況も記している。「本宮の宮、本社鳥居だけ 神殿へ水乗らず、その祭宮の宝蔵文庫まで残らず水入る。土塀玉垣流れる。水が重なり過ぎて大鳥居の笠木まで漬リ候」とあり、本殿は辛うじて浸水は免がれたが、本宮大社の被害が大きかった。八月八日夜から九日にかけての降雨量が大きかったようで、上桐原村の庄屋武助が肝煎組頭ら八人連名で三里組大庄屋萩野覚佐衛門に提出した願状にも、八月九日と一二日に二度洪水があり、上桐原村では、家屋を流失した五人の農民が食料、衣類、日用品など流失したので庄屋に救済を求めてきた。そしてこの年の年貢の納入にあたり、免分(年貢を課する割分)を三分成り(三〇%)に下げるよう願い出ている。土砂が入ったりして谷川に変ってしまった耕地が多かったからである。新宮水野氏配下の郡奉行は、九日と一二日のそれぞれの被害の状況を調査するようにと大庄屋をとおして各村の庄屋に指示している。

○参考文献

  『上富田町史』史料編上  (上富田町平成七年)

   上同書  史料編中    (上富田町平成元年)

  『和歌山県史』近現代一 (和歌山県)

   上同書        近現代二 (和歌山県)

 ○執筆:笠原正夫  

      (鈴鹿国際大学講師・上富田町史専門委員)