●明治二十二年の水害と戦後の治水対策  −富田川の災害と治水(その2)− 

      トップ> 上富田町文化財教室シリーズ


 水害の記録から

  市ノ瀬小学校の教員中原代蔵は、八月一九〜二〇日にかけての水害のようすを学校沿革史に書き留めている。

 一九日正午ごろから降雨が激しくなり、富田川の水かさも増して、荒狂いながら川は流れていた。夕方少し減水したかにみえ、村人は安堵したが、中原は校舎に入り、日々使用する什器を机の上に置き、書類などは最も高い書架に置きかえて、警戒の手をゆるめなかった。予想したとおり。六時ごろから風雨が強くなり、一〇時ごろは最高となった。

 暗闇のなかで泣き叫ぶ声やわめく声があちこちで起ったが、水勢を増した激流は、堤防を破壊してあふれ、大木も瞬時に倒して、一気に人家や水田を押し流した。流されて行く家の屋根で救いを求める人がいたが、どうすることもできなかった。

 恐怖と悲惨な一夜が明け、二〇日の早朝、明るくなったので見ると、小学校の校舎は傾むき、それに二、三棟の家が漂着していた。見渡すと、村の平地から谷の奥まで濁水がみなぎっていて、その激流のなかを大木の根倒しになったものや破壊された家屋の用材や家具類が転がりながら流れていくのが見えた。前日まで集落をつくっていた畑山では、わずか三・四戸の家の屋根がみえるだけであった。一夜のうちにこの惨状に一変してしまったのである。

明治22年大洪水現況実記訓誡 (三宝寺所蔵)

明治22年大洪水現況実記訓誡 (三宝寺所蔵) 

岩田村三宝寺住職大信も「明治弐拾弐歳大洪水現況実記訓誡」を残している。

 八月一九日の午後二時ごろから降り出した雨は、二〇日の朝八時ごろには、風雨が一秒間も止まることなく降り、寺の前の岡川の水も一丈(約三メートル)余の水量になった。昼ごろには川筋の家が水漬けとなり、見る間にたんす長持ちなど家具類が散乱して流れ出した。午後四時ごろには、寺の前の大橋をはじめ、人家や納屋などがちりぢりになって流れ、そのうち五、六軒の人家が水にとり巻かれて、人々は助けを求めたが、水勢が強く手の出しようもなかった。

 夜間になれば、平生の暗さとは異って、地の底に入ったような無気味な暗闇で、恐怖感を感じさせた。この夜八時ごろから富田川が大水となり、堤防も決壊して岡川と富田川の水が混じりあい、大河となって流れた。立平の二〇軒が人とともに流れ、大坊でも二〇軒余り、上岩田と田熊では、それぞれ一四〜五軒、三宝寺でも一〇軒あまりが流失した。

 翌八月二〇日、夜が明けてみるとあまりにもひどい変りようで食事も忘れてうろうろするばかりであった。

  富田川と岡川の水は、二〇日の朝五時ごろから引きはじめたが、上岩田の堰から堤防五〇〇間(約900m)が切れたため、水の流れは上岩田の中地から大坊中道通りをとおって、三宝寺前に突き当たり、水勢は大海の大波のようであった。一日中家材、家具が材木とともに流れ、人や牛馬も流れていった。人々は、この自然の猛威をぼう然と眺めているのみであった。

 二一日は水もかなり減ったので、早朝より溺死者の遺体を捜しに。兄弟、親類、知人など弁当持参で川伝いに富田浜あたりまで出かけて行った。「親に別れ、子を失ひ、妻も夫も兄弟も、思ひ掛けない死に別れ、家もなければ食物もなし、目もあてられぬばかり也」と記している。