●明治二十二年の水害と戦後の治水対策  −富田川の災害と治水(その2)− 

      トップ> 上富田町文化財教室シリーズ


 行政の対応

 朝来村長堀源四郎は、村役場も自宅も流失したが、八月二〇日の朝水害の報告のため田辺の郡役所に出頭して、目のあたりに見てきた朝来村の惨状を報告した。

 彼は、富田川の彦五郎堤が決壊して濁流があふれ、下村などは水中にわずか三戸のみが残り、その屋根に数十人が救助を待っている。その他の家は流失したが、人々の生死は不明である。山際に家があったため命拾いした者は円鏡寺に避難している。下流の方は一望してほとんど目遮るものはない、上流もほぼ同じである。村役場も書類はすべて流失したと述べている。

 朝来村長の陳述をうけた西牟婁郡長秋山徳鄰は、すぐ田辺の被害状況とともに県知事松本鼎に報告し、実情視察のため係官の派遣を要請した。

明治22年水害岩田村三宝寺方面より朝来平野を望む 

明治22年水害 

岩田村三宝寺方面より朝来平野を望む

 西牟婁郡内の各町村の被害状況を巡視する目的で、秋山県書記官が八月二四日に汽船で和歌山を出発し、救助米三〇石を携行して田辺に着いた。田辺から被害が大きいとされた富田川流域をみるため、まず朝来に来た。彼は水害数日後の朝来、生馬のようすを県知事へ報告している。 

 富田川は河原と化し、生馬と朝来の間が流れの中心で、堤防はことごとく決壊して広漠とした一面の川となっている。点々と家屋が存在するが、どの部屋にも泥土と雑木が充満し、二階からでなければ家に入れない有様で、その惨状は筆紙では書くことはできない。

 朝来、生馬の両村長は、ともに家屋が流失し、かろうじて逃れて助かった。役場も流失して筆記具もない状況である。住民は川の中に埋没した米麦を掘り出しては蒸し、それに少しばかりの精米(本官が携行してきた救助米を分与した米)を混じて、何とか飢えをしのいでいる、と記している。

 この年八月から九月にかけての官報は、連続して水害のことを掲載している。県知事松本鼎は、救恤の方法を手配し、普及させるよう取りはからっているが、はかどっていかないといい、とくに米穀をはじめ諸物価の高騰はおこるのはやむを得ないが、不当な値段をつけたり、諸職工が格外の賃金をむさぼるようなことを取締った。