●明治二十二年の水害と戦後の治水対策  −富田川の災害と治水(その2)− 

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 平井堰の設置

天井川といわれた富田川 (市ノ瀬地区 昭和35年ごろ)

天井川といわれた富田川

(市ノ瀬地区 昭和35年ごろ)

 第二次大戦も終わり、人々も故郷の山野を見まわせる余裕も出たきた。明治二二年の大水害以来、出水のたびに砂礫が堆積して年々河床が高くなっている富田川の治水問題について考える声も高まった。これ以上の天井川を食いとめるために、上流に砂防施設をつくり、堤防の嵩あげをすべしという意見も出たが、緊急の対策には取りあげられない。また下流の二井堰を撤去を主張する声もあるが、これも一朝一夕に解決できる問題ではなかった。こうしたときに、北富田、生馬両村地内に堰堤が設置された。これに対して岩田村々会は、出水のたびに富田川の洪水が発生するのではないかとの不安が高まり、村民の生命財産を保護するためにもすみやかに撤去させてほしいと知事に要請した。 

堰堤撤去方要請ノ件(岩田村 村会議事録)

堰堤撤去方要請ノ件

(岩田村 村会議事録)

 これまでも川筋の村々から、富田川の対策について何度も県当局へ陳情、請願をしたことがあったが、歴代の知事、土木担当者は、赴任ごとに視察をくり返すが、根本的な対策に着手せず、転任して行ってしまうことが繰りかえされているように、住民には思えた。だから北富田、生馬の境界付近に堰堤を設置されたことには不安感を持った。工事が夜間ひそかに、しかも雨中をついて急いで仕上げたとの風評があったから、ことの真偽はともかく、なぜこのように急がなければならないのかと住民の怒りを買った。彼らは、流域の村々は共存共営、相互扶助していかなければならない。富田川流域の村々は、もともと「一致団結、和親和悦、互に交りあう気風」が強く、他地方の羨望の的であったが、堰堤の設置は、これとは逆で、当地方の美風良俗を破壊してしまい、これまで続いてきた自治体同志の信頼と円満な気風をつぶしてしまうといわざる得ないといい、その状況を知りながら、この工事を許可し、補助金まで交付した県当局の方針に疑問をいだいた。

 岩田村会では、県が一方で排水施設を奨励して補助金を交付し、また一方では、水を堰き湿田を作る耕作地の改良を説いている。災害の防御策を講ずるかと思えば、一方で災害を助成するがごとき施設を認むるなど、県当局は一貫した産業政策や治水対策を採ってはいないといい、この問題は、究極は国家的な問題であり、場合によっては中央政府へ訴え、村民の生命と財産の保護に万全を期さなければならないかも知れないと、たいへんきびしい口調の要請書を可決した。村会議員平野安一ら一〇人の請求によって九月二八日に岩田村長宮本近太郎名で和歌山県知事に提出されている。